前々回と前回グレタ・トゥンベリを取り上げましたが、「心情左翼」という観点からみると、むしろSDGsに焦点を当てる方が適切かもしれません。

SDGsが掲げるスローガンや、それが日本社会で消費されている様子には、「心情左翼」と共通する構造が色濃く漂っています。なぜそのように感じられるのでしょうか。また「吉本隆明的な視点」から考察を加えてみましょう。

  1. 「誰も置き去りにしない」という“擬制(フィクション)”
    SDGsの最大のスローガンは「誰も置き去りにしない(Leave No One Behind)」です。

・心情左翼との共通点: これは、かつて吉本隆明が批判した戦後民主主義の「平和」や「人権」と同じく、反対することが不可能な「絶対善」です。 しかし、現実の経済や国際政治はトレードオフ(あちらを立てればこちらが立たず)の連続です。SDGsの「貧困をなくそう(目標1)」と「経済成長も続けよう(目標8)」と「気候変動も止めよう(目標13)」を同時に達成するのは、物理的・経済的に極めて困難な矛盾を孕んでいます。
・なぜSDGsから「心情左翼」が連想されてしまうのか?: この「痛みを伴う現実の矛盾(トレードオフ)」を隠蔽し、「みんなで頑張れば全部叶う」という無邪気な物語に仕立て上げている点が、まさに「心情左翼的なお花畑(ナイーブさ)」と感じられる要因です。

  1. 「免罪符」としての消費
    SDGsバッジをつけた企業人や政治家に対する違和感も、ここから説明できます。

・現代の「転向」: かつて日本のインテリが「軍国主義」から「民主主義」へあっさり衣替えしたように、現代の企業や組織も「利益至上主義」から「SDGs(社会貢献)」へと、中身を変えずに看板だけ掛け替えているように見えます(いわゆる「SDGsウォッシュ」です)。
・良心の麻痺: 「スタバで紙ストローを使う」「レジ袋を断る」といった小さな善行が、「私は地球に良いことをしている」という自己満足(自己幻想)を生み、より巨大な構造的問題(大量消費資本主義そのもの)から目を逸らす「免罪符」として機能しています。 これは、吉本が批判した「安全地帯からのモラリズム」そのものです。

  1. ただし、このSDGsは、右派(保守)だけでなく、現代の厳格な「理論左翼」からも激しく批判されています。代表的なのが、経済思想家の斎藤幸平です。彼はマルクス主義の立場から、SDGsを以下のように批判しています。

・「大衆のアヘン」である: SDGsは「今の資本主義システムを維持したまま、なんとなく良いことができる」という幻想を大衆に見せ、根本的なシステム変革(革命や脱成長)を阻止するための「ガス抜き」に使われている。つまり、真の左翼理論から見れば、SDGsは「左翼の顔をした、資本主義延命装置」なのです。

まとめますと、SDGsから「心情左翼」が連想されるとしたら、その原因は以下の2つに集約されます。

「きれいごと」の胡散臭さ: 現実のドロドロした利害対立や生活の苦しみを無視して、「正しいこと」を上から目線で唱える啓蒙主義的な態度。
「ファッション化」した正義: 覚悟や痛みを伴わず、バッジ一つで「良き市民」になれるという、安易な道徳的優越感。

ここで、SDGsとグレタ・トゥンベリ(に対する批判)はどこが違うのか、疑問に思われる方もいると思いますので、次回はその違いについて考察を加えてみたいと思います。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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