吉本隆明、グレタ・トゥンベリ、そしてSDGsの3者は、それぞれ全く異なる「正義」と「現実」を見ています。これら3つの立場を整理し、相互の関係性を可視化してみましょう。
《3者の立場の違いの比較》
①【基本的な姿勢】
②【立脚点】
③【経済への態度】
④【正義の性質】
⑤【敵対するもの】
⑥【心情左翼との距離】
吉本隆明
① 生活者のリアリズム
② 「現在」の生活・大衆(食うこと、生きること)
③ 肯定(大衆が豊かさを求める欲望や、生きるための労働は「善」である。)
④ 「泥臭い実存」(きれいごとではない、罪悪や矛盾を抱えた生。)
⑤ インテリの空理空論(上から目線の啓蒙、共同幻想(国家・理想)。)
⑥ 批判者(「それはインテリの自己満足だ」)
グレタ・トゥンベリ
① 原理主義的リアリズム
② 「未来」と「科学」(地球の物理的限界)
③ 否定(無限の経済成長は不可能。今のシステムを抜本的に変えるべき。))
④ 「潔癖な断罪」(妥協を許さない、白黒はっきりした科学的真理。)
⑤ 大人の嘘・先送り(「やっているフリ」をする政治家や企業。)
⑥ 批判者(「そんな口先だけで、未来が救えると思うな」)
SDGs
① 国連・企業の理想論
② 「バランス」と「継続」(経済も環境も両立)
③ 修正肯定(資本主義は維持するが、少し手直しして「持続可能」にする。)
④ 「マイルドな道徳」(誰もが反対できない、角の取れたスローガン。)
⑤ 極端な貧困・破壊(システムを脅かす不安定要素。)
⑥ 親和性が高い(「いいことをしたい」という気分の受け皿。)
3者の対立構造(誰が誰をどう見ているか)
この3者は「ジャンケン」のような三すくみ、あるいは「1対2」の複雑な関係にあります。
1. 吉本隆明 vs SDGs
・「生活」対「幻想」
・吉本にとってSDGsは、最大級の「共同幻想」です。
SDGsのカラフルなアイコンで整理された目標群を見て、吉本はこう言うでしょう。
「現実の生活はこんなにきれいに区分けできない。貧しい人が木を切って暖をとるのを『環境破壊だ』と止める権利が、安全な場所にいる君たちにあるのか?」
・私たちがSDGsに「心情左翼の匂い」を感じるのは、SDGsが「生活の痛み(現実の矛盾)」を隠蔽して、「きれいな物語」を提示している点において、吉本的なリアリズムと最も遠い場所にあるからです。
2. グレタ・トゥンベリ vs SDGs
・「本気」対「偽善」
・グレタ・トゥンベリは、SDGsを推進する大人たちを「偽善者(グリーンウォッシュ)」と見ています。
・「『持続可能な経済成長』なんていうおとぎ話で、危機をごまかさないで」というのが彼女の主張です。彼女にとってSDGsは、「抜本的な手術が必要な患者に、絆創膏を貼って安心している状態」に見えます。
・この点において、実は「SDGs批判」という一点では、吉本とグレタ・トゥンベリは共闘できる可能性があります(理由は違いますが、共に「現在のごまかし」を嫌うため)。
3. 吉本隆明 vs グレタ・トゥンベリ
・「大衆の欲望」対「科学的正義」
・ここが最も根源的な対立です。
・吉本は「大衆が車に乗りたい、肉を食べたい、楽をしたいと願うこと」を、生きるための根源的なエネルギーとして肯定します。
・対してグレタ・トゥンベリは、その欲望こそが「未来を食いつぶす悪」だと断じます。
・吉本から見れば、グレタ・トゥンベリの主張は「正しすぎるがゆえに、人間の『業(ごう)』を無視した、一種のファシズム(全体主義)」に映るでしょう。「正義のためなら、今の生活者を犠牲にしてもいいのか」という問いです。
第1回から第7回まで、「心情左翼」という言葉を手掛かりに、いわゆる〈倫理的な〉活動の欺瞞性について検討してきたわけですが、次回は「心情左翼(センチメンタリズムによる正義)」に対する批判の最大の難所とも言える「反核問題」を取り上げ検討してみたいと思います。吉本隆明の「反核異論」ははたして現在でも有効性を維持しているのでしょうか?