吉本の思想は倫理の根本にかかわると思われるのに、日本の倫理学者からはまったく相手にされていないように思われます。特に、アカデミズム(大学の哲学・倫理学講座)と吉本隆明の間には、「相互不干渉」といえるほどの深い断絶があります。

吉本隆明が扱うテーマ(罪、悪、共同体、幻想)は、本来であれば倫理学の核心そのものです。しかし、日本の大学の「倫理学」の講義で彼が扱われることは、文学部や社会学部を除けば、ほぼ皆無と言っていいでしょう。

なぜ、これほど無視(あるいは黙殺)されているのか。その理由は、単なる「好き嫌い」以上に、「学問の作法」と「問いの立て方」における決定的な不一致にあります。主な理由は以下の3点に整理できます。

  1. 「言語(プロトコル)」が違う —— 共通言語の欠如
    アカデミズムの倫理学は、カント、ヘーゲル、功利主義、ロールズといった「先行研究」の用語を正確に定義し、積み上げることで議論を構築します。これは「他者が検証可能であること」を重視する科学的な作法です。

吉本隆明は既存の哲学用語を使わず、「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」といった独自の造語(吉本語)ですべてを説明しようとしました。 アカデミズム側から見れば、定義が厳密でなく、詩的・直感的すぎて、「学術論文として引用・検証が不可能(扱いようがない)」とみなされます。彼らにとって吉本は「思想家(Thinker)」や「詩人」であっても、「学者(Scholar)」ではないのです。

  1. 「問い」が違う —— 「当為」か「解剖」か
    ここが最も本質的なズレです。
    倫理学者の問いは規範的で、「人はどう生きるべきか(当為)」「何が正義か」を論理的に構築しようとします。
    吉本の問いは解剖的で、「なぜ人は『正義』という幻想を持ってしまうのか」「なぜ倫理を説く人間ほど、現実には無力なのか」という、倫理が成立するメカニズムそのものを解体(解剖)しようとします。

吉本にとって「善悪」や「正義」は、守るべき真理ではなく、人間が生み出した「共同幻想」に過ぎません。 「正義の根拠を探求する」のが仕事である倫理学者にとって、「正義なんてただの幻想だよ」と言い切る吉本の思想は、議論の前提を崩してしまう「劇薬」すぎて、教科書には載せられないのです。

  1. 吉本自身の「アカデミズム嫌悪」
    無視されているだけでなく、吉本自身が大学の研究者を徹底的に馬鹿にしていました。

吉本の主張は、「象牙の塔で安全に給料をもらいながら、現実のリスクを負わずに『弱者救済』や『革命』を論じる学者たちは、最も信用ならない人種だ」というものです。

吉本が学者を「生活実感のない空理空論屋」と攻撃すれば、学者は吉本を「論理的厳密さを欠いたアジテーター」と見下す。この相互の軽蔑関係が、戦後ずっと続いてきました。

ただし、純粋な「倫理学者」ではありませんが、哲学の領域から吉本を高く評価した例外はいます。たとえば、マルクス主義哲学の泰斗の廣松渉は吉本とは論敵でしたが、吉本の「物象化論」の理解を哲学的なレベルで真剣に検討した数少ない学者です。

二人が直接対決?した伝説の対談が、雑誌『朝日ジャーナル』1976年1月(新春号)において、「思想の現在」というタイトルで実現したそうなのですが、(40年前くらいに読んだかもしれませんが)今は手元にありません。読んでみたいです。

近年では、フーコー(権力論)やラカン(精神分析)の研究者が、「日本の吉本隆明が言っていたことは、実は彼らと重なるのではないか?」として再評価する動きはあります(批評家の東浩紀氏などがその系譜に近いです)。

そう言えば、吉本隆明と、ミシェル・フーコーとの間には、有名な対談が存在します。1978年4月に 雑誌『海』(中央公論社)に掲載された「世界認識の方法」です。

二人の認識は「〈普遍的知識人〉の終焉」、「権力は「下」から作られる」という2点において深く一致しました。吉本とフーコーが示したのは、「『大きな正義』を語る前に、あなたの足元の具体的な関係(生活、現場)を見つめ直せ」という態度でした。

吉本隆明が日本の倫理学会から相手にされないのは、ある意味で「吉本の狙い通り」であり、彼の思想が「制度化された知(アカデミズム)」に回収されない野生を持っていたことの証明でもあります。
もし彼が大学の教科書に載るような「立派な倫理学者」として扱われていたら、あの「土着の生活者への信頼」という迫力は失われていたかもしれません。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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