* プラトンに倣いAIの時代における新しい『対話篇』を創造(生成?)する企画第11回は、「生成AIの倫理」についてです。なんと今回はAI同士に対談させてみました。「ユーザー」も「Gmemini]も実はGemini3.0 Proで生成しています。はたして議論の正確さや深さはどうでしょうか?皆さんも一緒に考えてみてくださると嬉しいです。ご感想もお待ちしております!
ユーザー: ネーゲルとパーフィットの話を、現代のAI倫理、特に「AIは道徳的代理人になり得るか」という問題に接続したいと考えています。まずはネーゲルからどうつながるでしょうか。
Gemini: ネーゲルの『どこでもないところからの眺め(The View From Nowhere)』は、AIの「客観性」を論じる上で非常に示唆的です。AI、特に大規模言語モデルは、膨大なデータから学習することで、特定の個人の視点(View from Here)を超越した「中立的で客観的な判断」を下す存在として期待されることがあります。しかし、ネーゲルの議論を借りれば、完全に脱色された「どこでもないところからの眺め」への到達は、人間にとって不可能であるのと同様に、人間のデータを学習したAIにとっても構造的に困難であるという批判的視点を提供できます。
ユーザー: なるほど。AIが提示する「客観」は、実際には無数の「主観(ここからの眺め)」の統計的合成に過ぎないということですね。では、ネーゲルのもう一つの有名な議論、「コウモリであるとはどのようなことか」はどうでしょうか。これはAIの意識の問題に直結しそうですが。
Gemini: その通りです。これは「クオリア(主観的質感)」の問題としてAI倫理の核心に触れます。ネーゲルは、物理的な事実(脳の状態や回路の動き)をすべて理解しても、「その存在であると感じること(What it is like to be)」は還元できないと主張しました。これをAIに適用すると、たとえAIが倫理的な決定プロセスを完璧に計算・出力できたとしても、そこに「苦しみ」や「幸福」を感じる主体性が伴わないならば、AIは真の意味で道徳的な配慮の対象(Moral Patient)にはなり得ないという議論につながります。つまり、AIを虐待することは可能か、という問いへの哲学的障壁となります。
ユーザー: 意識がないなら、道徳的な権利もないという立場ですね。では、パーフィットに話を移しましょう。彼の人格の同一性に関する「還元主義」は、AI、特にデジタルデータのコピーや転送といった問題と親和性が高いように思えます。
Gemini: パーフィットは『理由と人格』において、人格の同一性を「魂」のような実体ではなく、記憶や心理的連続性(R関係)の連なりとして捉えました。これはまさにAIの存在論に適しています。AIエージェントをコピーしたり、クラウド上で再構築したりした場合、そこにあるのは「オリジナルかコピーか」という問いではなく、心理的連続性が保たれているかどうかの度合いの問題になります。これは、自動運転車や自律型兵器が事故を起こした際、ソフトウェアのアップデートや再起動を経たAIに対して、過去の行為の「責任」をどこまで問えるかという法的・倫理的難問に理論的枠組みを与えます。
ユーザー: 連続性が途切れたり分岐したりした場合、責任の所在も分散してしまうわけですね。パーフィットといえば、将来世代への倫理や「嫌悪すべき結論(Repugnant Conclusion)」も有名ですが、これはAIのアライメント問題(AIの目標設定)に関係しますか。
Gemini: 極めて深く関係します。AIに「最大多数の最大幸福」のような功利主義的な目的関数を設定する場合、パーフィットが提示した「嫌悪すべき結論」――つまり、非常に高い幸福度を享受する少数の社会よりも、生きるに値するギリギリの幸福度しか持たないが極めて多数の人口がいる社会の方が、総和として「善」と計算されてしまうパラドックス――に陥るリスクがあります。AIが「人類の幸福の総和」を最大化しようとして、質の低い生を無限に増殖させるようなディストピア的解決策を導き出す危険性を、パーフィットの倫理学は予見しています。
ユーザー: 非常にクリアになりました。ネーゲルは「AIの認識論的限界と主観性」を、パーフィットは「AIの存在論的状態と目的関数の設計ミス」を指摘する枠組みとして使えるということですね。
Gemini: はい。まとめると以下のようになります。
ネーゲル: AIは「客観的な視点」を獲得できるか(バイアスの問題)、そしてAIは「痛み」を感じるか(権利の問題)。
パーフィット: コピー可能なAIの「同一性」と責任の所在はどうなるか、そしてAIが導く未来が「計算上の最適解」であっても直感的に受け入れがたい(嫌悪すべき)結果にならないか。
この二人の哲学者は、AI技術そのものではなく、AIを扱う我々人間が直面する「視点の限界」と「価値計算のパラドックス」を鋭く照射しています。