先日、公開40周年記念『バック・トゥ・ザ・フューチャー(以下BTTF)』4Kリマスター版を鑑賞してきました。今回は、今の世の中でこの映画を観る意味は何なのか、この映画には単なる娯楽を超えた何かがあるのか、1985年映画を取り巻く状況はどのようであったか、などについて考えていきたいと思います。

まず、この映画が公開された1985年を理解することは、作品の根底にあるトーンを理解する上で不可欠です。1970年代のニューシネマは、ベトナム戦争やウォーターゲート事件の影響を受け、反体制的で鬱屈としたリアリズムが主流でした。しかし、1980年代に入りレーガン政権下で「強いアメリカ」が叫ばれ、経済が回復基調に乗ると、映画もオプティミズムへと回帰しました。BTTFの主人公マーティが明るく、活動的で、物質的な豊かさを肯定しているのは、この時代の空気を反映しています。

1975年の『ジョーズ』、1977年の『スター・ウォーズ』を経て、1985年はハリウッドのビジネスモデルが完全に「超大作主導」に切り替わった時期です。当時は「タイムマシンで過去に行き、自分の両親の恋を成就させる」という、一行で説明でき、誰もが理解できる「ハイ・コンセプト」な物語が求められました。BTTFはその最高到達点の一つです。公開当時、ILMによる光学合成技術が成熟し、観客は映画館に「驚き」を求めて足を運びました。私は今回IMAXで鑑賞しましたが、当時の観客もまた、映画館という暗闇の中で、リアリティのある非日常体験を共有する祝祭的な空間を求めていました。

次に、この映画の「普遍的な価値」について考えてみたいと思います。BTTFが40年経っても色褪せないのは、タイムトラベルというSFガジェットを扱いながらも、その本質が「普遍的な人間心理」と「構造的な完璧さ」にあるからです。多くの物語における青年の成長は「親乗り越え(象徴的な父殺し)」ですが、BTTFのアプローチは哲学的にも特異です。マーティは過去に行き、「親もかつては自分と同じように悩み、弱さを持った一人の若者(他者)であった」という事実を発見します。 親を「親という役割」から解放し、「一人の人間」として対等に向き合うこと。これは心理学的な成熟のプロセスであり、世代を超えて誰もが直面するテーマです。

ロバート・ゼメキスとボブ・ゲイルによる脚本は、世界中の映画学校で教材として使われています。「伏線と回収」が数学的な緻密さで配置されており、無駄なシーンが一切ありません。冒頭の時計、チラシ、寄付のお願い、これら全てが後半の展開に論理的に機能します。この「論理的な美しさ」は、娯楽を超えた芸術的な構成美と言えます。

現代からこの映画を観る意味は、逆説的ですが、現代社会が失いつつあるものへの再評価にあります。現代は、アルゴリズムによる推奨や、複雑化した社会構造により、「個人の力では未来を変えにくい」という閉塞感が漂いがちです。 しかし、ドクの最後のセリフ “It means your future hasn’t been written yet. No one’s has.”に象徴される実存主義的なメッセージ――未来は決定事項ではなく、自分の行動によって書き換え可能であるという強い意志は、現代においてこそ、より切実な「希望」として響きます。

現代のSFはデジタルや仮想空間が舞台になりがちですが、BTTFのアクションは極めて物理的です。ケーブルを繋ぐ、雷に打たれる、スケボーで走る。こうした「身体性」や、原因と結果が明確に結びつく「因果律」の物語は、複雑不透明な現代社会において、精神的なカタルシスをもたらします。

この映画は1985年から1955年を懐かしむという構成ですが、現在はその1985年から30年どころか40年経っていて、もはや1985年そのものがノスタルジアの対象です。この映画の「日本製品」の扱いは、単なる小道具以上の、「未来とハイテクの象徴」としての意味を持っていました。主人公の憧れる車はトヨタであり、ビデオカメラはビクター、カセットプレイヤーはAIWAで、感慨を禁じえません。

そしてこの1985年は、奇しくもプラザ合意がなされた年であり、日本がバブル経済へと突き進む絶頂期の入り口でした。エズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を著してから数年後、世界中の富と技術が日本にあるかのような錯覚さえあった時代です。40年後の現在からその光景を見ると、単に「懐かしい」という感情を超え、ある種の「無常」を感じずにはいられません。無常と言えば、スケボーで縦横無尽には走り回っているマイケル・J・フォックスが現在パーキンソン氏病で苦しんでいるのも(映画には関係ないですが)ある種の感情を引き起こします。

当時のアメリカ映画界について考察してみましょう。クレジットに出てくるスピルバーグのアンブリン・エンターテインメントは1981年に設立されましたが、1985年こそが「アンブリンの黄金期」の幕開けとも言える重要な年でした。アメリカ映画史の文脈では、コッポラ、ルーカス、スピルバーグの3人は「第1世代」と位置づけられ、ゼメキスとキャメロンは彼らの影響を強く受けた後継者たちと見るのが最も正確な相関図です。彼らは単なる友人関係を超え、師弟関係やライバル関係が入り混じった「巨大なファミリー」のような繋がりを持っています。

そういえば、今日の映画に「私はダース・ベイダー。惑星バルカンから来た宇宙人だ!」というセリフがありました。このセリフには、当時の映画少年たちの心をくすぐる「二重、三重の仕掛け」が施されています。それは『スター・ウォーズ』と『スタートレック』という違う時代の「SFのごった煮」であったり、〈ファミリー〉への「愛あるいじり」であったり、製作者たちの遊び心がギュッと詰まっているのが分かります。

ゼメキスの映画には「何度観ても新しい発見があり、決して飽きさせない不思議な引力」があります。 『バック・トゥ・ザ・フューチャー(BTTF)』、『フォレスト・ガンプ』、そして『コンタクト』。これらに共通する「ゼメキス・マジック」の正体が何なのか、少し紐解いてみたいと思います。

ゼメキスは、「テクノロジーの信奉者」です。たとえば、『フォレスト・ガンプ』では、トム・ハンクスがケネディ大統領と握手したり、ジョン・レノンと対話したりしますが、あまりに自然で技術の存在を忘れてしまいます。 『コンタクト』でも、冒頭の地球から宇宙の果てまでズームバックする驚異的な映像は、「宇宙の広大さと人間の孤独」を一発で分からせるための演出でした。しかし彼は「技術を見せびらかさず、感情を揺さぶるために使う」のです。だからこそ、映像が陳腐化せず、いつ見ても物語に没入できるのです。

また、 ゼメキス作品は、どれも非常に論理的に構築されているのに、最終的な着地点が「理屈を超えた奇跡や愛」にあるため、観終わった後に深いカタルシスと余韻が残ります。たとえば、『コンタクト』のジョディ・フォスターが最終的に体験したのは「証拠はないが、確実に存在した真実(父との再会)」でした。彼女は最後に「科学者としてではなく、一人の人間として信じる」という境地に達します。『BTTF』のドクも 科学者でありながら、最終的には「理屈(因果律)」よりも「愛(クララ)」を選ぶのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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