選挙前になるとSNSにいろいろな投稿が飛び交いますが、なぜ人は政治だけは専門家でもないのに自信満々に語れるのでしょうか。これが物理学の「二重スリット実験」についての投稿だったら、専門家しかリアクションしないのに不思議です。この現象には、いくつかの構造的な理由が考えられます。
物理学や高度な理論は、私たちの生活の背後で機能してはいますが、それを理解していなくても明日の生活が激変することはありません。しかし、政治は「資源の分配(たとえば税金・年金・教育など)」に直結します。また、自分たちの生活環境が脅かされる可能性がある以上、専門知識の有無にかかわらず、口を出さざるを得ない「切実な当事者性」があります。
民主主義の根本は、専門家の意見も素人の意見も等価値であるという前提に立っています。「有権者であること」が、そのまま「政治について語る資格」として機能します。この「参加している感覚」が、投稿を加速させます。
政治的議論の多くは、実は技術的な議論ではなく「何が正しいか」という価値観の衝突です。しかし私たちは日々「社会」の中で暮らしているため、「自分は社会の仕組みを(実体験として)知っている」という錯覚に陥りやすい傾向があります。さらに、知識が少ないほど自分の能力を過大評価してしまう「ダニング=クルーガー効果」が、複雑な政治問題を「単純な正義の話」に置き換えて発信させてしまうのです。
SNSにおける政治的発言は、政策の検討が目的ではなく、「自分はどのグループに属しているか」を示すためのシンボルとして機能することが多々あります。特定の政治的主張をすることで、同じ価値観を持つ仲間から「いいね」を得て、帰属意識を確認します。逆に、「あいつらは分かっていない」と仮想敵を作ることで、自分の正当性を手軽に強化できるツールになってしまっています。
しかし、SNSの投稿は、真の命題から正しい推論を経て導き出された結論を述べる論考などはほぼ皆無で、憂鬱になってしまいます。これは投稿が結論の真偽を検証することではなく、「相手を論破する」「味方を鼓舞する」「自分の正義を誇示する」ことが目的化しているからです。ですからその論理は結論を導くための「道筋」ではなく、あらかじめ決まった結論を正当化するための「武器」として、都合よく切り取られて使われます。
前回「論理学」について書きましたが、P(事実)⇒Q(当為)
この矢印の間に、本来なら〈膨大な!!〉倫理学的・社会学的な検証が必要ですが、SNSではそのプロセスが省略され、感情的な直感が「推論」の代わりを務めてしまいます。そもそも「真である」と断定できる命題(前提)を確保すること自体が困難です。また、論理的に厳密であろうとすればするほど、結論は「条件付き」になり、歯切れが悪くなります。SNSのアルゴリズムは、そのような慎重な論考よりも、論理を飛躍させた断定的なレトリックを拡散させる傾向にあります。論理的推論が機能するためには、対話者双方が「より正しい結論のためなら、自分の間違いを認める」というルールに合意している必要がありますが、現在の政治的議論の場は、残念ながら「共同での真理探究」ではなく「陣取り合戦」の様相を呈しています。
「論理は、それ自体が力を持つのではなく、論理を尊重する人々の間でのみ力を持つ」のです。実は最近自分のサイトに『軍需産業は本当に悪か?』という論考を載せようと思ったのですが、選挙直前なのでやめました。ろくに読みもしないで「戦争を助長するのか」などと非難されるのが嫌だったからです。論考の中身がどれほど緻密で、多角的な視点を備えていたとしても、選挙直前という「極端な二項対立」が加速する時期には、精読よりも先に「敵か味方か」の判定が下されてしまいます。
別に投稿を諦めたわけではありません。単に「出す時期をずらした」のです。一時的な熱狂の中で消費されるよりも、嵐が去った後に「静かに思考を深めたい読者」に届く方が、その論考の生命力は保たれるはずだと考えました。