前回、〈SNSにおける選挙についての投稿は「正しい推論(Valid Inference)」に基づかないものがほとんどだ〉という話をしました。しかし、これは選挙に限りません。

復習をしておきましょう。「正しい推論」とは、「誰がやっても、ある前提から同じ結論が導き出されるようなプロセス」です。SNSにおいてなぜこれほどまでに推論が機能しにくいのか、いくつかの側面から整理してみます。

SNSは、論理的整合性よりも「共感」や「怒り」といった感情的な反応を増幅させる設計になっています。「嫌いな相手が言っていることだから間違いだ」という、典型的な「人身攻撃」が推論の出発点になりがちです。また、複雑な事象(たとえば「軍拡」)を「善か悪か」の二分法に無理やり押し込めることで、推論のステップを省略してしまいます。

SNSのレコメンド機能は、私たちが「正しいと思いたい推論」を補強する情報ばかりを流してきます。似たような推論ミスを犯している人が複数存在していても、そのミスが「共有された真実」に昇格してしまいます。さらに自分で論理を組み立てるのではなく、インフルエンサーが提示した「もっともらしい結論」をそのまま自分の推論の結果として採用してしまう傾向があります。(大学教授であるとか、「権威ある」人の発言の引用にはひときわ慎重である必要があります。)

SNSの人々は「客観的な正しさ」よりも「自分のアイデンティティと整合するかどうか」という個人的な理由を優先して推論(の模造品)を行っているように見えます。しかしここは重要なので強調しておきますが、私はその人の推論が正しくないからといって、その人のもともと感じていた「実感」までが偽物であると言いたいわけではありません。実感は大切にされるべきものです。

SNSの物理的な特徴もまた「推論」を阻害する大きな原因となります。キーワードは「カメラ」と「出版」です。スマホのカメラは特に能がなくても「誰でも撮影できてしまう」デバイスであり、短文の投稿はどんな駄文でも「誰でも投稿できてしまう」ことにその本質があります。

スマホのカメラは、ある瞬間は切り取りますが、その前後のコンテキストまでは記録しません。したがってカメラの画像は、断片的な情報から全体を推論する「不当な一般化」を招きやすくなります。

「誰でも撮影できてしまう」とはどういうことかと言うと、かつて撮影はれっきとした「技術」だったということを意味しています。言い換えれば撮影は「自覚的な行為」だったのです。撮影者は手動でピントを合わせ、シャッター速度と絞りを計算し、被写界深度を予想し、撮影後は現像しなければなりませんでした。オートフォーカスが一般的になったのは1985年にミノルタが発売した「α-7000」からであり(ちなみにこの年に初めて家庭用ムービーも発売されました)、保存媒体がフィルムからデジタルに移行したのは1995年にカシオが発売した「QV-10」以降でした。

次に「出版」について考えてみます。publish(出版する) の語源は、ラテン語の publicus(公の、人々の) に遡ります。ちなみに、人々がSNSを通じて、今日のように日常的に自分の意見を投稿できるようになった時期は、2004年〜2006年頃です(その頃、日本では mixi 、アメリカでは Facebook が誕生しました)。それから20年で出版の概念は劇的に変化しました。

今は自分の意見をpublishすることが「特権的」ではなくなり、ある意味出版が「民主化」されたとも言えます。一方SNSへの投稿は、従来の出版が持っていた「編集」と『査読」というシステムを欠いています。言い換えると「他者の目」が不在であるということであり、「生の主観」が、検証されないまま流通することを意味します。信頼性や倫理的責任はすべて発信者個人に帰せられることになります(あるいは問われないことになります)。

かつての出版物は「アルシーヴ(Archives) 収蔵庫」(主に公文書館、博物館、図書館など)に長期的に保存・管理されるものでした。フーコーの文脈を借りるまでもなく、アルシーブとは単なる「古い記録の保管庫」ではなく、その社会において「何が語るに値し、何が保存されるべきか」を選別する権力的なシステムでもあったのです。

哲学的な視点で見れば、「不変の真理を記述する行為」としての出版から、「瞬間の連帯や共感を得るための行為」としてのSNS投稿へと、比重が移っているのです。そのような意味では、InstagramやTikTokのようなフォーマットは、言葉を選ばずに言えば、まさに「知性の外部化」と「感性への退行」を最も加速させるフォーマットだと言えるかもしれません。そして、私たちはそのような「思索なき」投稿の情報の海に溺れ、本質的な読書からは離れ、ますます愚民化していくのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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