2016年DeepMind社のAlphaGoが世界最強棋士イ・セドルを打ち負かしてから10年が経過しました。(AlphaGoは映画で観られます(リンク))このままAIが進化すると仮定した場合、完全に囲碁を究めることははたして可能なのでしょうか?
この問いは、ゲーム理論と計算機科学、そして哲学的な観点から非常に興味深いテーマです。結論から述べますと、「理論上は可能だが、現実(物理的・計算資源的)には極めて困難」というのが現在の定説です。
囲碁は「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類されます。この種のゲームについては、数学的にツェルメロの定理(Zermelo’s theorem)が適用されます。この理論の帰結は「双方のプレイヤーが常に最善手を打ち続けた場合、〈先手必勝〉〈後手必勝〉あるいは〈引き分け〉のいずれかの結果が、対局が始まる前から論理的に決定している」です。理論上、初手から終局までのすべての分岐において最善手を知ることができれば、囲碁は「解決された」ことになります。
しかし、理論と現実は異なります。囲碁の複雑さは、他のゲームと比較するとその異常さが際立ちます。各種ゲームの「盤面のパターン数」を比較してみます。
「三目並べ」10の3乗
「オセロ」10の28乗
「チェス」 10の47乗
「将棋」 10の71乗
「囲碁」10の170乗
囲碁の盤面の状態数は、観測可能な宇宙に存在する原子の数(約10の80乗)よりも圧倒的に多いため、現在のコンピュータがどれほど進化しても、全探索で解決することは物理的に不可能です。現在のAlphaGoやKataGoなどのAIは、実は「完全に解決」して打っているわけではなく、「モンテカルロ木探索」と「ニューラルネットワーク」を組み合わせ、「勝てる確率が最も高いと思われる手」を推測しているに過ぎません。
しかしそうは言っても、プロ棋士が「私ならここはこう打つ」と言える領域は狭まってきているように思われます。この感覚は、現代のプロ棋士が直面している最も「実存的」な悩みの一つだと言えるかもしれません。かつて囲碁の世界では、ある一手に対して「これこそが私の碁だ」という個性の表明(スタイル)や、「この流れならこう打つべきだ」という美学(フォーム)が、勝利と同等、あるいはそれ以上に重んじられる局面がありました。しかし、AIの登場によって、その「主観的な領土」が急速に「客観的な正解」へと書き換えられています。
AIの出現はこの「〈棋風〉から〈精度〉への転換」以外に、「最高峰の棋士の権威の失墜」を招きました。しかしそれでも興味深いのは、AIによって「正解」が示されるようになっても、「なぜそれが正解なのか」を人間が理解し、納得し、自分の血肉にするプロセスは依然として個別の棋士に委ねられているという点です。言い換えれば、「AIが示す厳しい正解の道筋を、人間がどのような物語(解釈)として受け止めるか」という、一種の「メタ的な表現」の領域に移行しているのかもしれません。
ところで、「囲碁の解明は現実的には困難である」というのはあくまでも計算量の問題なので、「現在のコンピュータの延長線上」という前提を外せば、話は全く変わってきます。「計算量の壁」を打ち破る可能性のある画期的なブレイクスルーとして、現在想定しうるシナリオをいくつか整理してみましょう。
現在私たちが使っているコンピュータ(古典コンピュータ)は、すべての分岐を一つずつ計算しますが、量子コンピュータは「量子重ね合わせ」を利用することで、膨大な選択肢を同時に処理できる可能性があります。「未整理のデータから正解を探し出す量子アルゴリズム」と「数百万〜数千万という膨大な〈論理量子ビット〉を安定して扱えるハードウェア」が登場すれば、現在「数億年かかる」と言われている探索を、数日、あるいは数時間で終わらせてしまうかもしれません。
次に考えられるのが、囲碁というゲームに、私たちがまだ気づいていない「深層的な数学的構造」が隠されている場合です。例えば、ある複雑な数式を解くのに、一つずつ数字を代入するのではなく「公式」を導き出せば一瞬で答えが出ます。万が一、「盤面のこのパターンとあのパターンは、位相幾何学的(トポロジカル)に同値である」といったような、盤面を劇的に抽象化・簡略化できる数学的発見があれば、10 の170 乗という数字自体が無意味になり、一気に解決に近づきます。
しかし、ここで物理学的な限界が立ちふさがります。情報処理には必ずエネルギーの消費と熱の発生が伴うという理論(『ランダウアーの原理』)があります。ここでは具体的な数式は割愛します(というか私が理解できないのです)が、10の170乗という状態をすべて「計算」して情報を書き換えるなら、そのエネルギー消費だけで地球、あるいは太陽系全体の質量をエネルギーに変えても足りないという試算もあるそうです。
さて、もし万が一囲碁が完全に解明され、「初手はここ以外は負け」「その後はこう打てば必ず勝ち」という完全な棋譜(神の一局)が判明してしまったら、それは囲碁という文化にとってどのような意味を持つでしょうか。結論が分かっているゲームを人間が打つことは、現在の「三目並べ」を楽しむのと同じような、単なる「手順の確認」になってしまうかもしれません。しかし逆に、答えが分かっているからこそ、そのプロセスにおける「なぜこれが最善なのか」を人間が解釈し、味わうという、より純粋な「哲学」や「芸術」に近い領域へ昇華される可能性もあるのです。