今回の衆議院選挙では「軍拡」が争点の一つになりました。ここでは「軍拡」のうち軍需産業について考察を加えていきます。いつもと同じように私のスタンスは「中立」です。

軍需産業を「悪」と断定するかどうかは、どのような倫理的枠組みを採用するか、あるいは国際政治をどのように捉えるかによって結論が大きく異なります。単なる感情論ではなく、「現実主義」と「理想主義」、そして「帰結主義」的な観点から整理すると、この問題の複雑さが見えてくるはずです。

まず、軍需産業を現実主義的な視点から考えてみます。国際政治の文脈では、国家が自国民の安全を守ることは「国家の責務」とされます。軍需産業は、「攻撃されたら反撃される」という恐怖を相手に与えることで、戦争を未然に防ぐという抑止力を支えます。「自衛権」を行使するためにも、最低限の装備が必要です。他国に武器を依存しすぎると、外交的な自立性を失うリスクもあります。また、インターネットやGPSのように、元々は軍事目的で開発された技術が民間に転用され、人類全体の利便性を高めた例は少なくありません。

次に、軍事産業を倫理的・帰結主義的な視点から考えてみましょう。まず兵器が「使用されること」で利益が生まれるという構造そのものが、平和への動機付けを削ぐという批判があります。また紛争が長引くほど潤う企業が存在することへの倫理的抵抗感もあります。(いわゆる「死の商人(Merchants of Death)」という批判です。)軍拡は、一方が軍備を強化すれば、隣国も対抗して強化するという「安全保障のジレンマ」を引き起こし、結果として世界をより危険にするという面もあります。さらに、軍事費に投じられる巨額の資金が、教育、医療、環境対策などに使われていれば得られたであろう「幸福」を損なっているという批判もあります。

この2つの観点をバランス良く取り扱うことはなかなか困難です。政治の世界では、道徳的に正しいことだけをしていては、より大きな悪(国家の滅亡や虐殺)を防げない場合があります。個人の道徳と国家の論理には「視点の対立」があります。軍需産業を支援することは、道徳的にはグレーであっても、政治的には「不可避な選択」とされることがあります。また、ある軍備増強が「抑止に成功して平和が守られた場合」と「結果的に戦争を誘発した場合」では、その産業への事後的な評価が分かれてしまいます。行為そのものの善悪を、結果から切り離して評価することの難しさがここにあります。

では、「今の日本が仮に軍需産業にあまり力を入れていないとして、それでもアメリカ軍の安保に頼っていたら、人を殺す武器に頼っているという点では倫理的には同じなのではないか?」という問いを考察してみましょう。これは日本の戦後安全保障における「最大の論理的矛盾」です。「自らは直接手を下さないが、他者が振るう武力の恩恵に預かる」という構図は、倫理的には「責任の外注(アウトソーシング)」と呼ばれます。「軍事産業に力を入れない」という選択が道徳的にクリーンであるためには、本来「武力に一切頼らない」という徹底した非暴力主義が必要です。しかし、日米安保体制(核の傘を含む)の下で安全を確保している現状は、非暴力とはほど遠いです。論理的に以下のことが言えます。

日本政府は自衛隊を「盾(防御)」、米軍を「矛(打撃力)」と役割分担する説明をしてきました。しかし、盾が機能するためには矛の存在が前提であり、システム全体で見れば、日本は「世界最強の軍事産業・軍事力」の一部として機能していることになります。また、日本は米軍に基地を提供し、多額の「思いやり予算(駐留経費負担)」を支払っています。これは間接的に、アメリカの軍事活動や軍需産業を資金面で支えている(=武器を買う、あるいは維持する資金を提供している)ことに他なりません。日本が「平和国家」という看板(主観的アイデンティティ)を掲げつつ、裏で米国の武力(客観的現実)に依存している状態は、まさにこの二つの視点が統合されないまま並存している「不条理」を象徴していると言えます。

自分が深く関わっているシステムが「殺戮」を前提としているのに、自分だけは「平和主義者」として振る舞うことは、自己のプロジェクト(生き方)としての不誠実さを露呈していると批判される可能性があります。「他人に手を汚させて、自分は綺麗なままでいる」ことは、道徳的なエゴイズムに近いという指摘です。国際政治学の観点では、これを「安保ただ乗り論(Security Free-riding)」と呼びます。

「軍需産業に力を入れない」ことが道徳的な「善」として成立するためには、「もし米国が守ってくれなくなっても、それでも武器は持たないし使わない」という覚悟が伴わなければなりません。では、「本当の軍拡反対論者」は、武器を持たないで、人の手も借りないで、いわば素手で国防をしようとしているのでしょうか?そうではありません。彼らがが主張しているのは、単に「無防備でいろ」ということではなく、「国防の定義を軍事から外交・経済へと転換せよ」という戦略的な提案である場合がほとんどです。

かつての「非武装中立論」は 、「軍備を持つから敵対心を生み、攻撃の対象になる。〈持たない・組まない(中立)〉を貫くことで、他国が日本を攻撃する動機そのものを消滅させる」という考え方でした。彼らは「憲法9条」を平和の象徴として活用し、徹底した中立を保つことが最大の防御であると考えました。しかし、世界情勢は大きく変化し、『非武装中立論」は現実的な方針への転換を迫られました。すなわち、現実的には「自衛隊」の存在を認めつつ、その運用に厳しい制約をかけようとしたのです。それは「専守防衛の徹底」であり、相手の基地を叩く能力(敵基地攻撃能力)や集団的自衛権の行使は認めず、あくまで「日本が攻撃された時だけ、最小限の力で追い返す」というスタイルであり、攻撃的な兵器を持たず、相手に脅威を与えないことで軍拡競争を避けるという戦略です。

こういった主張をする人たちが考える「武器」とは、ミサイルではなく「外交力」や「相互依存関係」です。「外交力」とはすなわち「近隣諸国との経済的・文化的な結びつきを強め、「日本を攻撃すると、攻撃した側も経済的に大損をする」という状況(相互依存)を作り出す力であり、これが最強の抑止力になると主張します。その上で貧困支援や環境対策など、紛争の「根本原因」を取り除くための国際貢献に資金を投じるべきだという考え方です。

ところで、「武器輸出」が倫理的に好ましくはないというのは事実だとしても、専守防衛のためには武器が必要だし、防衛政策を「経済」や「産業構造」の視点から「現実的に」捉えると、「輸出なしでの国内生産」は非常に効率が悪く、維持が困難であるという現実に直面します。「専守防衛」という方針を貫こうとしても、それを支える防衛産業が経済的に成り立たなければ、結果として他国(主に米国)からの購入に100%依存するか、自衛能力を損なうかの二択を迫られることになります。この問題の核心にあるのは「コストと防衛力のジレンマ」です。

防衛装備品(戦闘機、戦車、ミサイルなど)は、開発に天文学的な費用がかかります。仮に開発に1兆円かかったとして、10機しか作らなければ1機あたりの開発分担金は1,000億円ですが、1,000機作れば10億円に下がります。採算が取れないことは、単に「税金の無駄遣い」に留まらず、「日本の技術基盤が消える」というリスクに直結します。輸出が可能になれば、生産ラインが安定し、企業は投資を継続できます。これが現在の日本政府が「防衛装備移転三原則」を緩和し、輸出を推進しようとしている大きな理由の一つです。

経済的・戦略的合理性を追求すると「輸出は不可避」となりますが、ここには常に倫理的な議論がつきまといます。すなわち、「日本製の武器が他国で人を殺すために使われる」ことへの国民的な抵抗感と、輸出した武器が回り回って紛争地に流れ込み、地域の不安定化を招くリスクに対する懸念です。

しかしそうは言っても、「武器のかわりに外交を」は小学生ならともかく、ウクライナ侵攻や中東情勢、さらには東アジアの緊張といった「力による現状変更」が目の前で起きているという昨今の世界情勢をみると、〈お花畑〉すぎないでしょうか?
哲学的な視点や国際政治のリアリズムから見れば、単なる「話し合い」を万能視することは、むしろ「無責任な理想主義」と批判される対象になり得ます。この議論を、再整理してみましょう。

国際政治学におけるリアリズム(現実主義)の格言に、「外交とは、背後に強力な軍隊を持って初めて成立する芸術である」というものがあります(フリードリヒ大王の言葉に由来します)。外交官がテーブルに座るとき、その背後にある軍事力や経済力は「無視できないコスト」として相手に意識されます。「もし合意しなければ、手痛いしっぺ返しを食らう」という恐怖(抑止力)が、譲歩を引き出す原動力になります。逆に、相手がルールを守る気がなく、かつこちらに力がない場合、外交は単なる「命乞い」や「隷属へのプロセス」になってしまう危険があります。

非武装論者が想定している「外交」と、現実の「外交」には大きなズレがある場合があります。本来、実効性のある外交とは地政学的包囲網、経済的相互依存、インテリジェンス(諜報)を含んだ「泥臭いパワーゲーム」なのです。つまり、優れた外交官は「平和を愛する心」で交渉するのではなく、「戦争を回避しつつ自国の利益を最大化するための計算」で動いています。個人としての道徳では「殺生を許容する軍備」を悪と感じるかもしれません。しかし、国家という「視点」に立てば、自国民を守るために「武器を持たないこと」こそが、国民に対する「道徳的な不作為の罪」になり得ます。

バーナード・ウィリアムズは、政治において「手を汚さずに済む」という考えを退けます。平和を守るために、他国を威嚇し、武器を作り、時には冷酷な決断を下す。その「汚れた手」を引き受けることこそが、政治的リアリティです。 「武器を持たずに外交を」という主張が、この「手を汚す責任」からの回避であるならば、それはウィリアムズ的な意味での「インテグリティ(誠実さ)」を欠いていると言えるかもしれません。

しかし非武装論者にも言い分があります。彼らは以上述べたことは承知した上で、「軍事力の限界」を感じているからです。一旦戦争が始まれば、どれほど優れた兵器を持っていても、結果はコントロール不能になります(第一次世界大戦が良い例です)。また、軍備増強が「安全保障のジレンマ」を生み、かえって戦争を引き寄せてしまう歴史的教訓があります。

結論として、「武器か外交か」と、問題を「二者択一」と捉えるのがおそらく最も危険な発想です。現実的な国防とは、「外交を成功させるために武器を持ち、武器を使わずに済むように外交を尽くす」という、極めて矛盾に満ちた、しかし不可分の営みです。これを「お花畑」と呼ぶか「必要悪」と呼ぶかは、その時代ごとの国民の覚悟に委ねられています。平和を維持するために、最も平和を破壊する道具を磨き続けなければならないという矛盾。この矛盾を引き受け、そのバランスをどう取るかを悩み続けることこそが、知的な、あるいは政治的な「誠実さ」と言えるかもしれません。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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