アルベール・カミュ『異邦人』を50年ぶりくらいに再読しましたが、やはりまぎれもない傑作だと思いました。ここではこの作品を 「〈誠実さ〉という名の不条理」、「〈太陽〉の描写と身体性」、「死刑直前の〈幸福〉」という3点から考察してみます。
「〈誠実さ〉という名の不条理」ですが、ムルソーは嘘をつくことを拒否しており、そのことが逆説的に彼を非人間的で冷酷な存在として浮き彫りにしています。彼は何かに誠実であろうと努力しているわけではなく、まるでカメラのように等距離で客観的に自分の心や外界を描写しています。彼が示しているのは、内面的な葛藤や超越的な規範に基づく「倫理的な誠実さ」ではなく、もっと即物的な、いわば「記述的な誠実さ」と言えるかもしれません。ムルソーはその独白で、あらゆる出来事に対して「解釈」を拒否し、フラットな熱量で描写します。
「〈太陽〉の描写と身体性」ですが、「太陽のせい」という殺人の動機は、人間の理性がいかに脆弱で、身体的な感覚や自然の暴力性に左右されるものであるかを冷徹に描き出しています。しかし私は「太陽のせい」にそれほど深い意味を読み込む必要はないと思います。つまり、「太陽のせい」という言葉を、内面的な動機や思想の欠如として深読みするのではなく、フィルムが強い光にさらされて露光してしまうような物理的な現象として捉える、そう考えるとあの場面の異様さがより鮮明になります。ムルソーが引き金に触れたのは、決断でも殺意でもなく、強すぎる光に対するまばたきや身震いと同じ、単なる「指の痙攣」という物理的な反応に過ぎなかったのです。
「死刑直前の〈幸福〉」について考えてみましょう。独房での司祭との対話、そして「世界の優しい無関心」に心を開くラストシーン。あの場面で彼が感じるのは、ニヒリズムを突き抜けた先にある、「幸福」でしょうか。私にはそれは幸福であるというより、別段不幸でもないという感じに思えます。世界は無意味であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。自分と世界との間にあった「意味を求めなければならない」という重圧から解放され、ただ世界と「等価」になった状態です。
この作品には「ニヒリズム」が満ち溢れていますが、実際カミュがニーチェから多大な影響を受けているのは間違いありません。しかし、その受け止め方は非常に独特です。カミュはニーチェの「世界に意味はない」という認識は共有しますが、ニヒリズムを乗り越えようとせず、不条理を不条理のまま、意味のない状態を「それ以上でもそれ以下でもない」ものとして維持し続ける姿勢を貫きました。
ここで根本的な(そしてさんざん論じられてきたであろう)問いに戻ります。その問いは「いったいムルソーは何に対して「異邦人(L’Étranger)」だったのか」という問いです。3つの考えられる層を提示してみます。
1つ目は「社会的な「約束事」に対する異邦人」です。ムルソーには「母が死んだら泣くべきだ」「罪を犯したら反省すべきだ」といった感情のコードが欠落しています。カミュ自身が「ムルソーは社会というゲームに参加していない」と述べています。しかしながらこの解釈は、法廷劇を成立させるためのプロット上の仕掛けであり、ある種、非常に分かりやすい「表層」に過ぎません。ムルソーが抱えているのはもっと根源的な「断絶」です。
2つ目は「物語(意味)」に対する異邦人」という解釈です。私たちは、自分の人生や他人の行動を、因果関係や理由という「物語」で理解しようとします。ムルソーは、人間が呼吸するように生み出し続ける「意味のネットワーク」の中に住んでいません。彼は、出来事を「解釈」する人々の世界において、ただ「観測」するだけの、原理的な異邦人です。その意味で『異邦人』は1950年代に登場するヌーヴォー・ロマンの先駆的な達成といえます。ヌーヴォー・ロマンは「文学に内面などというものはない。あるのは事物の輪郭、距離、光、色彩といった表層だけだ」といった趣旨の主張をしました。ムルソーにとって、海も太陽も、あるいは恋人マリィの身体も、彼の内面を表現するための小道具ではなく、ただそこに存在する「物質」です。この「人間の意識に回収されない世界の他者性」が、ヌーヴォー・ロマンの冷徹な文体と見事に共鳴しています。
最後の解釈は「〈自分自身〉に対する異邦人」という観点です。
ムルソーは自分の感情や行動を、まるで他人のことのように、あるいは単なる物理現象のように記述します。彼は自分の人生の「主役」として内面から世界を見るのではなく、自分の肉体や状況を外側から眺めているような、「自己」に対しても疎遠な存在です。世界は本来、人間の都合や論理とは無関係に、ただそこに「ある」だけです。ムルソーはその「世界の無関心」をそのまま体現してしまっているがゆえに、意味を必要とする「人間社会」からは追い出され、最後には死刑という形で排除されることになります。
これは非常に本質的な問題で、マルクスの「疎外(Entfremdung)」にも通じるように思われます。通常、マルクスの「疎外」は労働者が自分の生産物や労働過程から引き離される社会批判の文脈で語られますが、その根底にある「人間が本来持っているはずの『類性的本質』や『意味のつながり』から切断され、物象化していく」という構造は、まさにムルソーが置かれた状況そのものです。
「あらかじめ世界に投企されしまった無意味さ」と言うことで、カミュは一時サルトルを旗振り役とした「実存主義」の枠組みで語られることがありましたが、彼は明確にこれを否定しています。サルトルは、「あらかじめ決められた意味がないからこそ、人間は自らを選択し、意味を創り出し、世界にコミットすべきだ」と説きます。カミュにとって、勝手に意味を捏造することは、不条理という真実からの「逃避」でしかありませんでした。
実存主義のキーワードである「投企」は、どうしても「意志」や「目的」を伴います。しかし、ムルソーという「カメラ」には投企する意志がありません。ムルソーは、未来に向かって自分を投げ出すのではなく、今、この瞬間の露光(物理的現在)の中に留まっています。そこに「自分を何者かとして形成しよう」という実存主義的な情熱はなく、むしろ「形成を拒む」ようなブランショの言う「中性的なもの(le neutre)」があります。
『異邦人』における「中性的なもの(le neutre)」とは何でしょうか。ムルソーは「幸福か不幸か」と問われても、どちらでもない(あるいはその問い自体が外部のものである)と感じています。彼は「意味を肯定する」わけでも「絶望して否定する」わけでもなく、ただ現象の中に「留まって」います。太陽の光に「露光」し、ただ反応するだけのムルソーは、意志を持った「主体」ではなく、外的な力にさらされた「中性的な媒体」に近い存在です。
ところで今回私は50年前と同じ窪田啓作訳の新潮文庫で再読しました。この翻訳はカミュの中性的な特質をよくとらえています。たとえば「きょう、ママンが死んだ。」という有名な冒頭からして、親という属性をはぎとり中性的な雰囲気をたたえています。一部の翻訳では「今日、母親が死んだ。」と訳しているものもありますが、これでは「子は母を愛し、その死を悼むべきである」という強固なイデオロギーが張り付いています。カミュの原文は Aujourd’hui, maman est morte. (morteはmourirの直説法複合過去形)となっており、ma mère(母親)にはなっていません。