一般的に倫理学の入門書には、主な学説として「功利主義」「義務論」「徳倫理学」が紹介されています。しかしこの3つは誰かが勝手に分類しただけであり、「図式的」なものにすぎません。ところが、その学説の1次文献を読まずして、図式だけで倫理学を語る人が多いです。哲学者が実際にどのようなレトリックを用い、どのような切実さを持ってその思想を構築したのかは、言葉の血肉が通った原典にしか宿りません。原典を読まないと「ニュアンスの把握」ができず単純な議論になってしまい、また「思考プロセスの追体験」ができないため、自分なりの批判的視点が奪われます。
では倫理学の「三大理論」を語るために最低限読まなければいけない1次文献とは何でしょうか。常識的には以下の3冊を挙げる場合が多いです。
「功利主義」: J.S.ミル『功利主義』
「義務論」 :カント『道徳形而上学の基礎づけ』
「徳倫理学」 :アリストテレス『ニコマコス倫理学』
「功利主義」でなぜベンサムではなくミルが一次文献として強く推奨されるのかには、倫理学的な深みと、テクストとしての「完成度」という2つの大きな理由があります。ミルは、快楽の質的区別をし、功利主義を単なる計算式ではなく、人間の尊厳や自己研鑽を肯定する、より説得力のある倫理学へと進化させたのです。
次に「義務論」ですが、カントは『基礎づけ』の序文において、倫理学を「経験的な部分」と「純粋な部分」に峻別することから議論を始めています。つまりカントは、経験的な要素(人間の感情、同情心、幸福への欲求など)を道徳の「根拠」に据えることを徹底的に拒絶したのです。また、道徳法則が「義務」として私たちを絶対的に拘束するためには、それは「普遍性」と「必然性」を備えていなければなりません。そして、この二つを担保できるのは、経験に先立つ「理性の形式」のみです。まだ何言っているかわかりにくいかもしれませんので、後ほどまたふれましょう。
3番目の「徳倫理学」ですが、、ミルの『功利主義』やカントの『基礎づけ』と、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を同じ「倫理学のテキスト」として並べることには、学問的な性質上大きな隔たりがあります。アリストテレス自身は「徳倫理学という理論」を提唱しようとしたわけではなく、当時のギリシャ市民にとっての「善く生きること(エウダイモニア)」を深く洞察したに過ぎないからです。 『ニコマコス』は、特定のルールを提示するものではありません。アリストテレスにとって倫理学は独立した理論ではなく、政治学の一部であり、人間がポリスの中でいかに機能するかという実践的な知恵の一部でした。
さて、「1次文献を読まないと倫理学は語れない」という本題について、もう少し深く考えてみましょう。
「功利主義=最大多数の最大幸福」「義務論=義務的な規則遵守」「徳倫理学=人格の良さ」といった図式に基づいて、「A(この事実)ならばB(この結論)である」と判断するのは、哲学的な思考を放棄しているに等しいと言わざるを得ません。ここではあえて具体例は挙げません。環境問題にしろ、差別問題にしろ、ジェンダー問題にしろ、「AならばB」と判断する場合に、その判断の「質」が問われなければならないのです。
では1次文献を読まないと、なぜ雑な議論になるのでしょうか。それは、原典は自らの理論の限界や、適用する際の困難さを執拗に記述しているからです。(すぐれた原典は、同じ問題を巡って、行ったり来たりしているような印象を与えます。)
たとえばミルは『功利主義』の中で、個人の「自由」や「正義」が功利の原理といかに激しく衝突するかを認め、それを調停するために多くのページを割いています。また『ニコマコス』でも、徳とは生まれつきの性格だ、などと単純なことは言っていません。徳とは「思慮(プロネーシス)」という知的な働きを伴った、その時々の状況で「中庸」を見極める、極めてダイナミックな実践知のプロセスなのです。またアクラシア(意志の弱さ、自制心の欠如)の議論では「いや、私たちは分かっていながら、なお悪い方を選んでしまうではないか」という、人間の心理的リアリズムに深く切り込んでいるのです。
ここではカントについて少し詳しく書いてみます。カントの『基礎づけ』を読むと、彼が重んじているのは「外的な規則を守ること」ではなく、「自らが理性的存在として、自らに課した自律に従うこと」であることがわかります。ところが通俗的な義務論者はまさに「経験的な要素(人間の感情、同情心、幸福への欲求など)を道徳の「根拠」に据え」て議論してしまうのです。
カントは「義務にかなった行為 (pflichtmäßig)」と「義務からの行為 (aus Pflicht)」を厳密に区別します。前者は、同情心や親切心から人を助けるような行為です。これはカントに言わせれば道徳的価値(Moralischer Wert)はゼロです。なぜなら、その根拠が「たまたまそういう感情を持っていた」という経験的な偶然性に依存しているからです。後者は、むしろ相手を嫌っているような最悪な気分の時であっても、ただ「それが道徳法則であるから」という一点において行為する。これこそが、アプリオリな純粋性を持つ「道徳的価値」です。
「経験的要素」を根拠にした義務論は、結局のところ、以下のような「条件付きの道徳」に収束してしまいます。
「みんながルールを守れば快適に過ごせるから、交通ルールを守るべきだ」
「神様に叱られたくないから、他人に嘘をつくべきではない」
「差別されている人を見ると自分が苦しいから、手を差し伸べるべきだ」
これらはすべて、カントが最も嫌った「他律」です。一次文献を精読すると、カントがいかにして「自分の理性が、自分に対して、自律的に法を与えること」に、人間の唯一の自由と尊厳を見出したのかが痛いほど伝わってきます。
今回の記事に限らず、最近私はSNS上などで目にする「哲学っぽい」発言が正当な推論を経ていないことを指摘してきました。「哲学っぽい」記事は多いですが、読む価値のあるものは少ないのです。