今回はちくま新書『形而上学とは何か(リンク)』(秋葉剛史)第5章前半を参照しつつ、〈可能世界〉を考えてみたいと思います。いや、いまだによくわからないのですが。。。
〈可能世界〉は村上春樹『1Q84』のパラレル・ワールドのようなものでしょうか。この2つは「今ここにある現実とは別のありよう」を想定するという意味では似ていますが、その役割や定義には決定的な違いがあります。小説のパラレルワールドは「物語の舞台」ですが、哲学の可能世界は「命題の真偽を検証するための論理的ツール」です。『1Q84』における別の世界は、「物理的に移動できるかもしれない場所」として描かれます。哲学的な可能世界は、隣り合わせにある並行世界ではありません。「もし〜だったら」という思考実験を支えるための、論理上のインデックスのようなものです。言い換えれば、形而上学における可能世界論は、「あり得た可能性」にどのような存在論的地位を与えるか、という議論です。まず本書に従って、可能世界論の代表的な2つの立場、デイヴィッド・ルイスの「様相実在論(可能主義)」と、プランティンガ等の「現実主義(代用主義)」の決定的な違いを整理します。
「様相実在論(可能主義)」
ルイスの主張は、一言で言えば「可能世界は、この現実世界と全く同じ意味で実在している」というものです。以下の3点が重要です。
・〈実在性〉: 別の可能世界(例えば、あなたが大リーガーになっている世界)は、私たちが住むこの世界と「物質的な質」において何ら変わりません。
・〈空間的・時間的隔離〉: それらの世界が「見えない」のは、単にこの世界から時空的に繋がっておらず、物理的に遠く離れているからに過ぎません。
・〈「現実」の指標性〉: ルイスにとって「actual」という言葉は、「ここ」や「今」と同じ指標詞です。私たちがこの世界を「現実」と呼ぶのは、単に私たちがそこに住んでいるからであり、他の世界の住人から見れば、彼らの世界こそが「現実」なのです。
「現実主義(代用主義)」
これに対しプランティンガ等は、実在するのはあくまで「この現実世界のみ」であると考えます。では、可能世界とは何かというと、それは「抽象的な対象」です。以下の3点が重要です。
・〈代用主義(Ersatzism)〉: 可能世界を「具体的な場所」と考えるのではなく、現実世界の中にある「事態のリスト」や「命題の集合」として定義します。
・〈小説の例え〉: わかりやすく言えば、可能世界とは「非常に詳細に書かれた小説のプロット」のようなものです。小説(可能世界)自体は本棚(現実世界)に実在していますが、その中身が実際に起きているわけではありません。
・〈未充足の状態〉: プランティンガにとって、可能世界とは「最大限に包括的な事態(State of Affairs)」です。それは「実現している(obtained)」か「実現していない」かの違いがあるだけで、存在としてはどちらも「抽象的な記述」に留まります。
ルイスが「実在する」と言い張った最大の理由は、「論理的な明快さ」にあります。「Aは可能である」という文を、「ある世界 W において A が真である」と集合論的にスッキリ定義したかったのです。もし可能世界がただの「抽象的な代用物」だとすると、「では、その代用物はどうやって『可能性』を基礎づけているのか?」という新たな説明が必要になり、議論が循環してしまいます。ルイスは、存在論的なコスト(変な世界がいっぱいあると認めるコスト)を払ってでも、論理的な明快さを取ったわけです。
しかし、ルイスが「〈可能世界〉がある」と言い切ることのできる根拠はあるのでしょうか。ルイスはその「根拠」を、私たちの日常的な「直観」や「経験」ではなく、論理学的な「有用性」に求めました。ルイスにとって、可能世界を実在とみなすことは、複雑な概念を整理するための「最強のツール」を手に入れることでした。
・様相(可能・必然): 「P は可能だ」を「ある世界で P が真だ」と言い換えられる。
・反事実条件文(もし〜なら): 「囲碁や将棋で、もしあの時、別の手を打っていたら勝っていた」という文を、「我々の世界に最も似ている別の実在する世界で、実際に勝っている」と物理的に解釈できる。
・性質・内容: 「赤い」という性質を、「赤いものが存在するすべての可能世界の集合」として定義できる。
ルイスは、これらの複雑な哲学的問題を、すべて「集合論」という数学の言葉でシンプルに解釈したかったのです。もし可能世界が「架空(偽物)」なら、その「偽物の論理性」をまた別の理論で説明し直さなければならず、理論がどんどん汚くなってしまいます。ルイスは「この世界が特別であるという物理的な証拠は何一つない」と指摘します。私たちがここを「現実」と呼ぶのは、単に「ここに居合わせているから」という主観的な理由(指標性)に過ぎません。
ルイスの理論に対する最大の反論は、「そんなの信じられない(Incredulous stare)」という反応そのものです。これに対し、ルイスは平然とこう返しました。「私の理論は、私たちの日常的な直観には反するかもしれない。しかし、数学や論理学をこれほどまでにスッキリと説明できる理論は他にない。 多少の『気持ち悪さ』というコストを払ってでも、この『論理的明快さ』という利益を得る価値がある」つまり、彼は「こう考えたほうが、世界の仕組みが一番うまく説明できるという「理論の効率性」を根拠にしているのです。
逆にプランティンガ等は、なぜ「抽象的世界がある」と断言できたのでしょうか?「現実主義(代用主義)」の立場は、ルイスのような「突飛な宇宙の増設」を避け、私たちの常識に近いところで理論を組み立てようとします。彼らが断言できる根拠は、「論理的にどうしても認めざるを得ない道具」としての実在です。プランティンガ等の戦略は、「新しい変なものを持ち出すのではなく、私たちが普段から使っている『抽象的なもの』を再利用する」というものです。例えば、「雪は白い」という文の「意味(命題)」や、「白い」という「性質」について考えます。私たちは「雪は白い」という文が真であると理解できます。「雪が黒い」という状況も(現実にはなくても)「理解」はできます。プランティンガは言います。「この『理解できる命題』は、私たちの頭の外に、論理的な対象としてすでに存在しているのではないか?」と。可能世界とは、こうした「命題の巨大なセット(カタログ)」に過ぎないと考えれば、わざわざ別次元の宇宙を物理的に作る必要はありません。
プランティンガにとって、可能世界とは「世界がこうあったかもしれないという、最大限に詳細な記述(State of Affairs)」です。「現実世界」とは、その「記述」のうち、たまたま実際に起きているものであり、「可能世界」とは、その「記述」のうち、起きる可能性はあるが、まだ起きていないものなのです。
プランティンガは、ルイスの「別世界があるから可能と言える」という順序を逆転させます。「神(あるいは論理的構造)が考えうる可能性がまずあり、それが抽象的な形として存在するからこそ、私たちは可能・必然という言葉を使えるのだ」と考えました。高名なキリスト教哲学者でもあった彼にとって、可能世界とは「神が世界を創造する際に考慮した、あらゆるパターンの設計図」のようなイメージに近いと言えます。プランティンガ等が断言する根拠は、「そう仮定しないと、私たちの言語(『……かもしれない』という発話)が意味をなさなくなるから」という消去法的なものです。「もし可能世界という『抽象的な道具』すら存在しないなら、私たちが可能性について語る時、一体何について語っているのか分からなくなってしまう。だから、それは(抽象的な形で)存在するはずだ」という論理です。
素人っぽい疑問かもしれませんが、このような〈可能世界〉を考えることによって得られる哲学的なメリットは何かを考えてみます。一番のメリットは、曖昧な「言葉の意味」を、集合論で視覚化・計算できるようになったことです。これにより、言語哲学や論理学が、単なる解釈学から「科学的な厳密さを持つ学問」へと飛躍しました。「もし〜だったら(反事実条件文)」という主張は、現実には起きていないことなので、通常の真理値(○か×か)では判定できません。しかし、 「最も現実世界に近い可能世界」という概念を導入することで、この文が「真」か「偽」かを論理的に確定できます。このように、日常の「たられば」の話に客観的な指標を与えられるようになります。さらに、ある対象にとって、「なくてはならない性質(本質)」と「あってもなくてもいい性質(偶然)」を明確に区別できます。それによって、「あらゆる可能世界において、その人が持っている性質」こそがその人の「本質(エッセンス)」である、と定義できるのです。
結局のところ、可能世界論のメリットは「可能性(……かもしれない)」という極めて扱いづらい概念を、実体のある「モノ(世界)」として扱うことで、論理の迷子にならないようにする」という点に尽きるのです。