今回はちくま新書『形而上学とは何か』(秋葉剛史)第5章後半を参照しつつ、〈時間〉について考察してみました。しかし〈可能世界〉以上にわからなすぎて、頭が痛いです。私の「敗戦記」と思って読んでいただけたら幸いです。
まず、時間的特徴のうち「A特徴」と「B特徴」の区別から考えてみます。(マクタガートの『時間の非実在性』においては「A系列」「B系列」という用語になっており、その用語に統一します。)
- A系列(A-series):時制的特徴
A系列は、出来事を「過去・現在・未来」という動的な属性で捉える見方です。その上で「今」という現在地点を視点の基準にします。この見方では、例えば、「私の入学」という出来事は、かつては「遠い未来」であり、その後「近い未来」になり、「現在」を経て、今は「過去」へと変化しています。そして「昨日」「今」「明日」「かつて」といった、発話のタイミングに依存する表現(指標詞)で記述されます。この立場を重視する人は「現在主義」や「成長ブロック宇宙論」を支持することが多く、時間は実際に「流れている」と考えます。 - B系列(B-series):無時制的特徴
B系列は、出来事を「現在」という基準を持たず、「~より前」「~より後」「同時」という固定された関係で捉える見方です。宇宙の全歴史を俯瞰するような「神の視点」に近いものです。出来事の順序関係は永遠に変化しません。例えば、「1945年の終戦は、1914年の開戦より後である」という事実は、100年経っても1000年経っても変わりません。記述は「2026年2月21日」といった日付や、客観的な前後関係でなされます。この立場を重視する人は「永久主義(B理論)」を支持します。過去・現在・未来はすべて等しく存在しており、時間の「流れ」は心理的な錯覚であると主張します。
マクタガート自身は、ここから以下のような論理を展開しました。
1 時間には「変化」が不可欠である。(B系列(~の前、~の後)だけでは、出来事の順序が固定されているため、何も「変化」しません(1945年は永遠に1914年の後です)。)
2 変化を説明するにはA系列が必要である。(「未来だったものが現在になり、過去になる」というA系列の属性の変化こそが、時間の本質(変化)であると考えました。)
3しかし、A系列は論理的に矛盾している。(一つの出来事は、「過去」であり「現在」であり「未来」でもなければなりません。しかし、これら3つは互いに排他的です。また、「過去において未来だった」などと言い訳をしても、無限後退(Infinite Regress)に陥り、結局矛盾は解消されないと彼は主張しました。)
4マクタガードの結論「ゆえに、時間は実在しない。」
現代の形而上学者はこの結論には同意せず、代わりに「A系列とB系列のどちらがより根本的なのか」という対立軸としてこの概念を引き継ぎました。
A理論(時制理論)
主張: A系列(現在)こそが実在の根本であるし、私たちの直感にも合致します。ここから、「〈今〉という特別な瞬間は、物理学的な世界記述にどう組み込まれるのか?」という問いが生まれます。
B理論(無時制理論)
主張: B系列(前後関係)こそが客観的な真実であり、A系列は心理的な錯覚に過ぎないとします。これはアインシュタインの相対性理論(同時性の相対性)との親和性が高いです。哲学的立場は四次元主義(4-dimensionalism)を取り、過去・現在・未来のすべてが「時空のブロック」として等しく存在すると考えます。
ここで先ほど登場した「永久主義」と「四次元主義」を整理しておきましょう。
「永久主義(Eternalism)」とは「現在」だけが実在すると考える「現在主義(Presentism)」に対し、過去・現在・未来のすべてが等しく実在しているという立場です。私たちが「ここ(たとえば東京)」にいても「エジプト」が実在していると信じるのと同じように、時間の「今」にいても「2100年」は等しく実在していると考えます。永久主義者にとって「今」とは、単に「この発話が行われている時点」を指す指標詞(indexical)に過ぎず、宇宙における特別な瞬間ではありません。
「四次元ブロック宇宙(Block Universe)」とは永久主義を視覚化・構造化したモデルです。時間を、縦・横・高さの3次元に「時間軸」を加えた4番目の次元として捉えます。宇宙の全歴史(ビッグバンから宇宙の終焉まで)が、巨大な氷のブロックや映画のフィルムのように、あらかじめ「そこにある」ものとして記述されます。このモデルでは、時間は「流れる」ものではなく、単に「広がっている」ものです。私たちが時間を流れていると感じるのは、このブロックの中を私たちの意識が一方通行にスキャンしているからに過ぎない(心理的な錯覚である)と説明されます。
この考え方が強力なのは、単なる哲学上の思いつきではなく、現代物理学の帰結である点にあります。特殊相対性理論によれば、観測者の運動状態によって「何が同時か」が異なります。Aさんにとっての「今(現在)」が、Bさんにとっては「まだ先の未来」であったり「すでに終わった過去」であったりすることが起こり得ます。もし「現在だけが実在する」のであれば、観測者によって「何が実在するか」がバラバラになってしまいます。これを避けるためには、過去も未来もすべて等しく実在している(ブロック宇宙である)と認めるのが最も論理的整合性が高いとされます。
「永久主義(Eternalism)」という存在論的な立場は、言語や事実のあり方において「時制(A特徴)」を「無時制(B特徴)」へと解消しようとする「B理論」と密接に結びついています。
- 時制の還元主義(Reductionism of Tense)
B理論家は、一見すると「現在・過去・未来」というA的な性質を含んでいるように見える文章も、実はすべてB的な(無時制の)事実に翻訳・還元できると主張します。
・A的な表現(時制あり): 「今、雨が降っている」
・B的な表現(無時制への還元): 「雨が降るという出来事は、この発話(2026年2月21日15時)と同時である」
このように、「今」という主観的で動的な概念を排除し、出来事同士の「同時」「前後」という固定された関係(B関係)だけに置き換えるのが還元主義の核心です。
- 永久主義とB理論の関係
この二つは、いわば「世界のあり方」と「記述のしかた」のペアです。
・永久主義(存在論): 「過去も未来も、空間の遠くの場所と同じように存在している」という世界観。
・B理論(意味論・真理論): 「時間の真実を語るのに『現在』という特別な概念は不要であり、前後関係だけで十分である」という理論。
- 「A的な変化」の否定
B理論において、マクタガートが重視した「未来から現在、そして過去へ」という属性の変化は、以下のように説明(あるいは否定)されます。「出来事が変化するのではない。時間軸上の異なる地点において、異なる状態があるだけだ。」
例えば、「ポーカーフェイスだった人が急に笑った」という変化も、B理論(ブロック宇宙)では、「時間 t1 において『無表情』という性質を持ち、時間 t 2 において『笑顔』という性質を持つ」という、静的なデータの並びに還元されます。
では、B理論では時間の「動的性格」を説明できないのではないでしょうか。これこそが「A理論(時制理論)」と「B理論(無時制理論)」の最大の対立点であり、マクタガートが「時間は実在しない」と結論づけた急所でもあります。
B理論に対して投げかけられる最も強力な批判は、「B理論の世界は、凍りついた静止画の羅列であり、私たちの経験する『時間の流れ(Passing of Time)』や『生成(Becoming)』を削ぎ落としてしまっているのではないか」というものです。
この問題について、形而上学的な観点から整理してみます。
- B理論による「変化」の定義(ラッセルの変化観)
B理論家(還元主義者)は、動的な変化を認めないわけではありません。しかし、彼らが言う「変化」は、私たちの直感とは少し異なります。
・B理論的変化: 「物体 O が、時間 t 1では性質 P を持ち、時間 t 2 では性質 Q を持つこと」
・例: 「14時の信号機は緑である」かつ「14時1分の信号機は赤である」。
B理論では、これだけで「変化」の説明は完結していると考えます。しかし、これに対してA理論家はこう反論します。
「それは単に、空間的な『並び』と同じではないか。例えば『棒の左端は青く、右端は赤い』という性質の差を『変化』とは呼ばない。時間における変化には、現在が未来へと進んでいくあの特有の『動き』が必要なはずだ。」
- 「時間の流れ」は錯覚か?
B理論家は、私たちが感じる「時間の動的性格(流れ)」を、世界の客観的な性質ではなく、「主観的な心理現象」へと追いやります。
・私たちの脳が、前後関係にある静的な情報を処理する際に、映画のフィルムを映写機で流すように「動き」を投射(Projection)しているだけだという主張です。
・彼らは、「物理学の基本法則(相対性理論など)に『現在』や『流れ』を記述する変数が存在しない以上、動的性格は物理的実在ではない」と突っぱねます。
「B理論では動的性格を説明できない」と考える哲学者たちは、現在も「A理論」を洗練させています。
「成長ブロック宇宙論」は、過去と現在は実在するが、未来はまだ存在せず、現在という「最前線」が常に付け加わっていくことで世界が成長している、とする考え方です。これなら「動的性格」を実在のものとして扱えます。もし「時間の流れ」が単なる錯覚だとしたら、私たちが「もうすぐ卒業だ」「犬がこんなに大きくなった」と感じるあの切実な時間の重みも、単なる脳のバグになってしまいます。
B理論は「現在の特別さ」も説明できないのではないでしょうか。
B理論(無時制理論)において、「現在(Now)」は客観的な世界の中には存在しません。B理論家にとっての「現在」とは、単に「この言葉が語られている時点」を指す記号に過ぎず、2026年も、あるいは2100年も、宇宙のタイムライン上ではすべて等価(Ontologically equal)です。
B理論が「現在の特別さ」をどう「処理」してしまうのか、その論理を整理します。
- 指標詞への還元(Indexical Analysis)
B理論では、「現在」という言葉を「ここ(Here)」という言葉と同じように扱います。
・私が東京の自宅で「ここは東京だ」と言うとき、「ここ」が世界の中心であるわけではなく、単に「発話場所」を指しています。
・同様に、B理論では「今は2026年だ」という発話も、単に「この発話が行われている時刻は2026年である」という客観的事実を指しているだけで、2026年という年が他の年より「輝いている」とか「特別に実在している」わけではないと考えます。
- 「スポットライト」の不在
A理論では、時間を「過去から未来へと移動していくスポットライト」のように捉えます。その光が当たっている場所が「現在」であり、特別な実在性を持ちます。しかし、B理論(ブロック宇宙)には、光を当てる映写機もスポットライトもありません。 すべての出来事は、最初から最後まで「点灯したまま」固定されています。
「移動スポットライト説」および「成長ブロック説」についても簡単に説明しましょう。
これらは「現在」の特別さを守ろうとするA理論(時制理論)の中でも、特にユニークな2つのモデルで、B理論(ブロック宇宙)の「すべての時間は等しく存在する」という考え方を一部取り入れつつも、「それでも時間は流れているし、現在は特別だ」という直感を論理的に救い出そうとする試みです。
- 移動スポットライト説 (The Moving Spotlight Theory)
「永久主義(過去・現在・未来はすべて実在する)」と「A系列(時間は流れる)」を組み合わせたハイブリッドな説です。
・宇宙は、過去から未来まで続く巨大な四次元のブロック(B系列)として存在しています。ここまではB理論と同じです。
・そのブロックの上を、「現在」という名のまばゆいスポットライトが、過去から未来へと刻一刻と移動していくという動的性格を持っています。
・1980年も2026年も、場所(地点)としては実在しています。
・しかし、スポットライトが当たっている地点だけが「現在」という特別な性質を帯びます。
・「なぜ今、ライトはこの地点(2026年)を照らしているのか?」「ライトが移動する速度とは何か?」といった問い(時間の二階建て問題)に答えるのが難しいという弱点があります。
- 成長ブロック説 (The Growing Block View)
「現在主義(今だけがある)」と「永久主義(全部ある)」の中間に位置する、非常にダイナミックなモデルです。
・過去と現在は実在しますが、未来はまだ存在しません。
・世界は、新しい「現在」が次々と付け加わることで、時間が経つにつれてどんどん「成長」し、積み重なっていくブロックのような動的性格を持ちます。
・「現在」とは、実在の最前線(エッジ)のことです。
・過去は「かつて現在だったもの」として、実在のアーカイブの中に固定されています。
・未来は白紙であり、存在論的に「無」です。
・「過去は変えられないが、未来は開かれている」という私たちの強い直感(非対称性)を、世界の構造そのもので説明できる点が魅力です。
もし「移動スポットライト説」が正しいなら、未来の私(死の瞬間の私など)はすでにそこに存在しており、ただライトが当たるのを待っているだけです。もし「成長ブロック説」が正しいなら、未来の私はまだこの世のどこにも存在しません。
「現在主義(Presentism)」についても復習しておきましょう。これは、私たちの日常的な感覚に最も近く、かつ形而上学的に非常に過激な立場です。
現在主義とは、「現在(今)という瞬間にあるものだけが、実在のすべてである」という存在論的立場です。
・過去の否定: 1980年も、昨日の夕食も、今はもうどこにも「存在」しません。それらは「かつて存在した」という性質を持つだけで、実在のリストからは抹消されています。
・未来の否定: 明日の日の出も、将来の旅行計画も、まだ「存在」しません。
・3次元主義: 世界は時間的な広がり(4次元)を持たず、3次元の物体が「今」という瞬間の中で変化し続けていると考えます。
非常に直感的な現在主義ですが、哲学的にはいくつかの大きな壁にぶつかります。
① 「過去についての真理」の問題
「ナポレオンはワーテルローで敗北した」という文章は真実です。しかし、B理論(永久主義)なら「1815年のナポレオン」が実在するので真偽を判定できますが、現在主義ではナポレオンはどこにも存在しません。存在しないものについて、どうして真実を語れるのか? という問題が生じます(これを「真理の根拠付け問題」と呼びます)。
② 相対性理論との矛盾
前述の通り、アインシュタインの相対性理論では「誰にとっても共通の現在」というものが否定されています。
「東京に在住している私にとっての今」と「猛スピードで移動する宇宙人にとっての今」がズレる場合、現在主義をとると、「何が実在するか」が観測者によって変わってしまうことになります。これは科学的な客観性と相性が良くありません。
マクタガードの「時間は心が生み出した」という考えは、カントに近いでしょうか。結論から言えば、マクタガートとカントは、「時間は客観的世界(物自体)の性質ではなく、主観的なものである」という結論において非常に近い位置にいます。しかし、そこに辿り着くまでの「理屈(プロセス)」が全く異なります。
カントにとって、時間は私たちの心の外側にあるものではなく、私たちが世界を経験するための「OS」のようなものです。
カントは、人間が何かを認識する際、必ず「時間」と「空間」というフィルターを通さざるを得ないと考えました。時間は、私たちが世界を理解するための「認識の道具」です。したがって、私たちの認識を離れた「物自体」の世界に時間が流れているかどうかは分かりません(し、語ることもできません)。カントにとって時間は「便利な(不可欠な)メガネ」のようなものです。
一方、マクタガートの議論はもっと攻撃的で、論理学的な「バグ取り」に近いものです。彼は「A系列(過去・現在・未来)は変化に不可欠だが、論理的に矛盾している」と詰め寄りました。彼の結論は、「矛盾しているものは、この世に実在できるはずがない。ゆえに、時間は「実在しない(Unreal)」」というののでした。それでも私たちが時間を感じるのは、実在する「非時間的な順序(C系列)」を、私たちの心が「時間の流れ」として誤って捉えているからだと主張しました。マクタガートにとって時間は「論理的なエラーによる錯覚」です。
【補足】
- マクタガートの「変化」の定義について
まとめの「B系列だけでは何も変化しません」という部分は正しいですが、マクタガートのロジックをより厳密に言うと以下のようになります。
微調整案: B系列における「変化」とは、単に「t1でPであり、t2でQである」という事実の羅列(ラッセル的変化)に過ぎません。マクタガートはこれを「本物の変化ではない」と切り捨てました。なぜなら、1945年に終戦したという事実は、B系列上では全時間において(1000年後から見ても)「不変の事実」だからです。
「事実が不変であるなら、それは変化とは呼べない。属性そのものが『未来から現在』へと変わるA系列こそが変化の正体だ」という彼のこだわりを強調すると、よりマクタガートらしくなるかもしれません。
- 「A理論/B理論」と「現在主義/永久主義」の境界
まとめの中でこれらをペアとして整理していますが、現代の議論では以下のように区別されるのが一般的です。
B理論 = 意味論・真理論: 「『今』という言葉を使わなくても、世界の真実をすべて記述できる」という主張。
永久主義 = 存在論: 「過去・現在・未来のすべてが等しく実在する」という、いわば「ラインナップ」の主張。
- C系列(C-series)への言及
マクタガートは、時間が実在しないとしても、その背後には「変化もしないし、向き(前後)もない客観的な順序」があると考えました。これが「C系列」です。(C系列というただの「並び」に、私たちの心が「向き」を与えるとB系列になり、そこに「現在」を持ち込むとA系列に見える、という構造です。) - 成長ブロック説の「現在」
成長ブロック説の説明で「現在は実在の最前線(エッジ)」とあるのは完璧な表現です。
注意点: この説に対する有名な批判に「自分が今、本当にエッジ(現在)にいるとどうしてわかるのか?」というものがあります。もし過去も実在するなら、過去の中にいる「かつての私」も「今が現在だ」と錯覚しているはずだからです。この「デッド・パスト(死んだ過去)問題」を少し意識しておくと、さらに深い考察に繋がります。