スポーツにあまり関心ないのだが、オリンピックはついつい見てしまう。なぜだろう?
今回のミラノ・コルティナ大会を観て感じたことを思いつくまま書いてみよう。
ジョン・レノンは、Imagine there’s no countriesと歌ったが、今でも人々は「日本はメダルがいくつ・・・」ということにすごくこだわる。ところがオリンピックには、このような「国威発揚」の側面とは逆に、「国境を越える(コスモポリタニズム)」側面もあるわけであり、この祭典は常に根源的な矛盾を孕んでいると言えるのだ。
「国威発揚」という面では「メダルランキング」以外でも「表彰式の国旗・国歌」「開催国によるインフラ整備や演出を通じた、対外的な国力誇示」もある。一方、「国境を越える」という面では、「ルールの普遍性」「卓越したパフォーマンスに対する同じ人間としての感動の共有」なども存在する。
オリンピックは「国境を越える」ために、皮肉にも「国境」を最大限に強調するという手法を採っている。国家という単位があるからこそ、それを超える瞬間にドラマが生まれるという、構造的なジレンマの上に成り立っていると言えるのだ。
ところで、冬季オリンピック(特にフィギュア・スケート、スノーボード)では、「高く飛び上がって回転する」競技が多いが(バレエなどもそうであるが)、そもそも飛び上がって回転することにどれほどの意味があるのであろうか。
「高く飛び上がって回転する」ことが称揚される理由のひとつは、物理的限界への挑戦と「希少性」である。人間は構造上、重力に縛られた存在であり、高く跳び、空中で高速回転することは、日常的な身体操作の対極にある。「誰もが簡単にはできないこと」を成し遂げる姿に、私たちは価値を感じるのだ。また、地面に足がついている状態は「日常・現実」を象徴するのに対し、宙に浮いている瞬間は「天上的・超自然的」な存在を象徴する。それをあえて「軽々と」行うことで、観る者にエレガンスを感じさせるのだ。
それでもやはり、「高く飛び上がって回転する」ことは無意味なことであり、この無意味なことに4年間人生を捧げることは不条理に思える。しかしながら、もともと人生とは意味のないものであり、それだからこそ逆説的に一生懸命生きなければいけないのだ。オリンピックはそういう点で、まさに人生を象徴していると言える。
ちなみに日本で最初に冬季オリンピックが開催されたのは、1972年の札幌である。その頃僕は中学生であり、オリンピックの前に教室で1968年グルノーブル冬季五輪の記録映画『白い恋人たち』(原題:13 jours en France)を見せられた。
この映画は、今から50年以上前であるからというより、公開当初からノスタルジックだったような気がする。なぜだろうか。それは監督のルルーシュが、背景をぼかした柔らかい映像によって、現実の出来事を「過去の美しい思い出」のように変換してしまったからであり、また競技の全容を見せるのではなく、選手の吐息、観客の表情、街の喧騒をコラージュのように繋ぐ手法で、人間の「不完全な記憶の再現」に近い感覚を呼び起こしたからなのである。
また、歓喜のファンファーレではなく、フランシス・レイのどこか物悲しく甘美な旋律が流れることで、今目の前で起きている祭典が「いつか終わってしまうもの」として提示されたのである。ルルーシュは、国家の威信をかけた真面目なスポーツ大会を、一種の「儚い冬のバカンス」として描いたのである。