今年度アカデミー賞最有力候補にして、『キネマ旬報』2025年外国映画第1位のポール・トーマス・アンダーソン監督(以下PTAと記します)『ワン・バトル・アフター・アナザー』をIMAXで鑑賞してきました。あらすじはネタバレになりますので、こちらでご覧ください。

この映画のテーマは一言で言うと「継承される闘争と、血縁を超えた『選択』」です。かつての革命家ボブは、理想を失い隠遁生活を送る「燃え尽きた世代」です。一方、娘のウィラは、親たちの世代が作り出した混迷(移民問題や権力の監視)の中で、自らの足で立ち上がろうとします。彼女が危機に直面した際に武術を使い生き延びようとする場面はその象徴です。

ボブの宿敵ロックジョーが最新のDNA検査でウィラとの血縁関係を証明しようとするのに対し、ラスト付近、ボブとウィラは混乱の中で互いを認識するために「合言葉」を交わします。ここでは、共に生きてきたという「言葉」の信頼が血縁に勝利するのです。

冒頭、移民収容施設から人々を解放するシーンがありますが、これはトランプ政権下のICEに対する直接的なアンチテーゼとして描かれています。ロックジョーは、トランプ政権を支える「権威主義的な右翼」や「白人民族主義」の戯画ですし、「クリスマス・アドベンチャーズ」は、現代のQAnonや、それに類する極右陰謀論集団を痛烈にパロディ化したものです。

砂漠の起伏を活かしたカーチェイスの「見え隠れする恐怖と滑稽さ」は、「相手がどこにいるか分からない」という不安を視覚的に表現し、システムによる管理が及ばない「空白地帯」での戦いを描いています。また、ここでのカーチェイスは水平にスピーディーに流れるのではなく、坂を登り、下り、視界から消えるという「上下の運動」が強調されています。

私はPTAには詳しくなく、『マグノリア』と『パンチドランク・ラブ』しか観たことないのですが、それでも両作品は今作品を読み解く上で非常に面白い補助線になります。本作品では、初期〜中期の作品で見られた「過剰なまでのエネルギー」と「救いとしての愛」が、より円熟した形で回帰しているからです。『マグノリア』との共通点は「赦されない父」と「継承」ですし、『パンチドランク・ラブ』との共通点は「不器用な男の暴走と純愛」が挙げられますが、3作とも、最後には「壊れた人間が、誰かとの繋がりによってかろうじて再生する」物語だという点で共通しています。

ロックジョーが、ボブの元妻であるパーフィディアに対して抱く「異常なまでの性的執着」、これは、この映画が持つ「過去への執着」と「支配欲」というテーマを、最も醜悪で生々しい形で表現した設定だと言えます。この執着は、保守層が「古き良き、秩序あるアメリカ」を強引に取り戻そうとする、排他的なナショナリズムのメタファーと受け取れます。また、ロックジョーが彼女を性的に支配することは、ボブがかつて持っていた思想や輝きを、肉体的な暴力によって「汚し、屈服させる」ことを意味します。

それにしても、「バクタン・クロス取り締まり作戦」の描写は、まさに現実のニュース映像を見ているかのような生々しさがありました。トランプ政権の「ベネズエラ襲撃(2025年)」より前にこの映画が撮影されていたというのは、PTAの「時代の不穏な空気を感じ取る予言的な感性」が、恐ろしいほどに鋭いと言わざるを得ません。

私はこの作品を「きわめてアメリカ的」だと思いました。ここでの「アメリカ的」とは、私たちがメディアを通じてイメージする洗練された自由の国アメリカではなく、「過剰で、暴力的で、宗教的で、人間臭い」現実のアメリカです。

砂漠のカーチェイスや派手な作戦名も「映画的な誇張」に見えますが、それこそがアメリカという国家が持つ「ショーマンシップ」を正確に射抜いています。PTAは、あえて物語をスラップスティックに描くことで、「現実の政治がいかにリアリティを失い、芝居じみているか」を逆説的に表現しています。

もはや「西欧的」と「アメリカ的」は対立する概念です。西欧的な価値観は、対話と妥協によって「最適解」を導き出そうとします。しかし、本作のロックジョーや「クリスマス・アドベンチャーズ」には、そもそも対話の意志がありません。彼らを動かしているのは「正しさ」ではなく、「俺たちはここにいる」という強烈な生存証明の爆発です。この、理屈を超えた「信じたいものを信じ、敵を叩く」という力学は、もはや西欧的な「市民社会」のモデルでは捉えきれない、アメリカ独自の荒々しい生命力と言えます。

今のアメリカは、かつてフロンティアへ向かっていた開拓のエネルギーが、向かうべき場所を失い、内側へと向かって互いを食い合っている状態です。砂漠でのカーチェイスは、かつての西部劇の変奏ですが、もはや「正義の保安官」も「無法者」も明確ではありません。互いに相手を「ディープステート」や「陰謀論者」と呼び合い、終わりのない闘争(ワン・バトル・アフター・アナザー)に身を投じる。この「闘争そのものが生存目的化している」状態こそ、アメリカ独自の力学ではないでしょうか。

「アメリカ的なもの」が世界を飲み込むかどうかはわかりません。いくら経済や軍事で世界一であっても、「アメリカ的なもの」はユニバーサルではなくきわめてローカルなものだからです。彼らのエネルギーは、もはや外に向かう「拡大」のためではなく、内側の「純度」を高めるために消費されています。その精神性は極めて閉鎖的な「村社会」へと先祖返りしているような歪さです。この映画で描かれる「DNA検査への妄執」や「陰謀論」は、そのツールを自分たちの「ローカルな憎悪」を正当化するために私物化しているのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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