今回はちくま新書『形而上学とは何か』(秋葉剛史)第6章「人の同一性」を考察してみました。これまた考えれば考えるほど謎ではありますが、興味深いトピックです。

まず〈私が私である〉とは、本書の表現を借りれば「人は、ある一定の期間中、同じ一つの対象として存在し続けるもの、通時的な同一性を保って持続するもの」であるということです。この連続性を保証するための2つの説が紹介されます。

1つ目は「身体説 (The Biological Approach)」です。これは「〈私〉とはこの生身の肉体、あるいは動物としての個体である」という考え方で、以下のように表すことができます。

「p1とp2は同一の人である」⇔「p1の身体とp2の身体は同一である」

この説には以下の問題点が存在します。

・ もし脳(または全神経情報)を他人の体に入れ替えた場合、私たちは「身体」ではなく「脳(意識)」の方に自分が移動したと感じでしまう。
・ 身体は数年で細胞が入れ替わります。物質的に別物になっても「同じ人」と言えるアイデンティティが、物理的連続性だけでは薄弱になります。

2つ目は「心理説(The Psychological Approach)」です。これは記憶や性格、意図といった「心理的つながり」が同一性を決めるという考え方で、以下のように表すことができます。

:「p1とp2は同一の人である」⇔「p1とp2は心理的に連続している」

この説にも以下のような問題点が存在します。

・ 記憶を完全に失った人は、もはや「前のその人」ではないのか、という倫理的・形而上学的な問いにぶつかります。
・ パーフィットが提示した「分裂」の思考実験です。もし心理情報が2つの身体にコピーされたら、「私」が2人存在することになり、一対一の同一性が崩壊してしまいます。

この他に(身体説と心理説の)「ハイブリッド説」もありますが、真の改良にはなりません。

ここで私が感じた疑問ですが、そもそも「同一性」とは自分でそう考えるのではなく、「他者が同一であると考える」ことによってのみ成立するのではないでしょうか?これは形而上学における「一人称的な視点(内面からの同一性)」から、「三人称的な視点(社会や他者からの同定)」への転換と言えます。

現実社会においては「同一性」はしばしば他者による再認(Recognition)や社会的な登録によって担保されています。「私は私だ」といくら主張しても、周囲が「お前は誰だ?」と言えば、社会的な機能としての同一性は崩壊します。身体説が根強いのは、他者が私を識別する際に最も客観的でアクセスしやすい指標だからです。氏名、マイナンバー、指紋、顔認証などは、すべて「他者(国家や組織)」があなたを「同一の納税者/権利保持者」として扱うための仕組みです。認知症などで本人が記憶を失っても、家族が「この人は私の父だ」と扱い続ける限り、社会的な同一性は維持されます。

P.F.ストローソンは、個体を特定するためには「時空的な体系の中で他者と共有できる位置」が必要だと説きました。つまり、自分の中だけで完結する「私」という感覚(純粋な意識)だけでは、他人と対話したり、物を所有したりする際の「同一性」の基盤にはなり得ないという考え方です。

しかし、「他者が決める」という説にも、形而上学的な難問(アポリア)が残ります。「もし世界中の人が「あなたはAさんだ」と言っても、自分の中にAさんとしての記憶が一切なく、全く別のBさんとしての実感がある場合、その乖離をどう説明するかという問題が残ります。それは、もし他者が一人もいない無人島に漂着したら、そこには「同一性」は存在しないことになるのか? という問いでもあります。

「他者が決める」という説を突き詰めると、「自分とは、他者の眼差しの中に映る虚像の集積に過ぎないのか?」という実存的な問い、あるいは「責任の所在(他者が罰するために同一性が必要とされる)」という倫理学的な議論へと繋がっていきます。

上記のアポリアのことは考えているうちに、(極論ですが)「実は人間の同一性などないのだ、その都度〈同一性もどき〉のようなもので瞬間的に納得しているにすぎないのだ」と考えることはできないのか、という疑問が湧いてきました。

初期仏教の考え方は、まさにこの「瞬間的な納得」に近く、人間は色(身体)、受・想・行・識(心のはたらき)という五蘊(ごうん)の集まりに過ぎず、そこに固定不変の「我(アートマン)」はないと説きます。ヘラクレイトスも言いましたが、川は常に流れており、さっき触れた水と今触れている水は別物です。しかし私たちはそれを「同じ川」と呼びます。人間も同様に、刻一刻と変化するプロセスの連続を、便宜上「一つのもの」と見なしているに過ぎないという視点です。

デイヴィッド・ヒュームは内省を突き詰めた結果、次のように結論づけました。「自分を探してみても、そこにあるのは熱い・寒い、明るい・暗いといった個別の『知覚』だけであり、それらを束ねている『自己』という実体は見当たらない」彼によれば、自己とは「知覚の束(bundle of perceptions)」であり、私たちは記憶の力によって、それらが繋がっているという「幻想」を抱いているだけだということになります。

デレク・パーフィットは、昨日の私と今日の私が「厳密に同一(Identity)」である必要はないと言います。重要なのは、記憶や意図が緩やかに繋がっていること(生存)だけであり、そこに「私」という固定的な芯がある必要はない。彼はこれを「空虚な区別」と呼び、同一性に固執することをやめるよう提案し、この事態をむしろ「解放」と捉えました。「私」という狭い枠に固執しなくて済むからです。

なぜ私たちは、実体がないのに「同一性」を信じてしまうのでしょうか。そこには強力な「実用的メリット」があるからです。たとえば、「明日の自分」が空腹で困らないように今日準備をするためには、明日も「自分」が続いていると信じる必要があります。また、罪を犯した者が「さっきの俺と今の俺は別人だ」と言い逃れできないように、社会は「同一性」というレッテルを強制的に貼り付けます。さらに、支離滅裂な瞬間を、一つの「人生」という物語として編み上げることで、私たちは精神的な安定を得ています。

これは、デカルトの「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」を、持続的な実体としてではなく「思考の瞬間的な閃き」として捉える視点と同じです。デカルト自身は、その「思う我」を不滅の「精神的実体」へと飛躍させてしまいましたが、現代的な視点や現象学的な解釈では、「思考しているその瞬間にだけ、仮初めの『我』が立ち上がる」という解釈の方が、事実に近いのかもしれません。これは、デカルトのコギトを「線(持続)」ではなく「点(瞬間)」として捉える考え方です。たとえばエドムント・フッサールなどの現象学では、意識が何かに向かっている(志向性)その瞬間にだけ、主客が分かれ「私」という極が成立すると考えます。「私」という実体が先にあって思考するのではなく、「思考というプロセス」が発生した結果として、便宜上「私」というラベルが貼られるという順序です。

もし「我思う」瞬間ごとに別々の「我」が立ち上がっているのだとしたら、なぜ私たちは「ずっと同じ自分」だと錯覚できるのでしょうか。それは、瞬間ごとの「点」を、脳が記憶によって高速で繋ぎ合わせ、あたかも滑らかな「線」であるかのように編集しているからです。映画のフィルムを動かして、動いている映像として認識するようなものです。「さっき考えていたのも私だ」という納得は、常に事後的(レトロスペクティブ)な解釈に過ぎません。

バーナード・ウィリアムズは、こうした「同一性の理論」が、いかに私たちの「内部からの実感」を説明しきれていないかを問題にしました。ウィリアムズによれば、人間が生きる意味を感じるのは、瞬間的な「我」ではなく、時間を超えて続く「プロジェクト(人生の目的や愛着)」を持っているからです。形而上学的に「同一性はない(もどきである)」と論理で理解しても、私たちは「明日の私が受ける痛み」を自分の痛みとして恐れてしまいます。この「論理的な空虚さ」と「生存への執着」のズレこそが、彼が描こうとした人間の姿に近い気がします。

「同一性などない、その都度の納得にすぎない」という徹底したスタンスは、ある種の「諦念」と「自由」を同時にもたらします。それは、「昨日の失敗をしたのは、今の私ではない」という極論により過去への執着から解放されることでもありますし、デカルト的に「今、考えている」という事実だけを唯一の足場にすることでもあります。

実体としての「同一性」は形而上学的な幻影に過ぎないかもしれませんが、私たちがそれを「実体があるもの」として信じ込み、内面化していることこそが、倫理や責任を成立させる「装置」として機能しています。

「昨日の私」と「今日の私」が物理的・心理的に厳密に同一でなかったとしても、私たちは自分自身の人生を一本の「物語(ナラティブ)」として編み上げています。「あの時あんなことを言ったのは私だ」という納得がなければ、反省も後悔も生まれません。責任とは、過去の自分の行為を「現在の自分のもの」として接収するプロセスです。実体がないからこそ、私たちは意志の力で「これは私の責任だ」と同一性を宣言しているとも言えます。

「本人が実体があると考えている」背景には、強力な社会制度の影響もあります。他者が「お前がやったのだ」と指をさし続けることで、逃げ場を失った意識は「はい、それは私です」と同一性を認めざるを得なくなります。「自分は持続する存在だ」と信じ込む個体の方が、将来の計画を立て、他者と信頼関係を築けるため、社会の中で生き残りやすかった(進化論的な納得)という側面もあるでしょう。

「同一性」は形而上学的には「虚構(フィクション)」かもしれませんが、その虚構を本人が真実として生きることで、初めて「誠実さ」や「責任」という「倫理的な真実」が立ち上がってくるのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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