今回はちくま新書『形而上学とは何か』(秋葉剛史)最終章第7章を扱います。(引用は「  」で示しています。)本章のテーマは、「私たちは自らの行動を自分の意志でコントロールし、何をなすかなさないかを自分で決めることのできる存在、それゆえ、自分のしたことに対して「責任」を負いうる存在である」のか、です。

「自由意志がある」という立場を、本書では以下のように定義しています。
「自由テーゼ」:私たちの行為の少なくとも一部は、自由な行為である。

このテーゼは現代人にとってはごく当たり前の前提に思えます。しかし、たとえば中世においては「神学的決定論(Theological Determinism)」によって異議を唱えられてきました。要するに中世において、自由意志の最大の対抗馬は「神の全知全能」だったのです。現代では、「自然界の因果システム」によって異議が唱えられています。たとえば本書で引用されているベンジャミン・リベットによる実験によると、「ある運動への意識的な意志に先行して、その運動につながる脳活動が始まっているということ」がわかっています。この実験結果から以下のような問いが生じます。

「私たちが自由な行為だと思っているものは実は自由意志によって生じたものではない」のではないか?

もちろん、リベットの実験計画や実験手順に批判はありますし、この実験結果から「自由意志はない」と結論づけるのは早急にすぎます。しかしそれでも「機械じかけの宇宙」という見方すなわち「因果決定論(Causal Determinism)」は依然として存在します。要するに、科学革命以降、世界の支配者は神から「自然法則」へと取って代わられたのです。

この「自由意志はない」という立場を、本書では以下のように定義しています。
「決定論」:この世界で生じるすべての出来事は、より以前の世界の状態と自然法則からの必然的な結果である。

「決定論」から得られる結論は、「どんな行為者によるどんな行為も、自由な行為ではない。」となりますが、これを著者の秋葉は「自由懐疑論証」と呼びます。このあと本章では、「自由テーゼ」を擁護するための議論が検討されていきます。「自由テーゼ」を擁護するには大きく分けて2つの戦略があります。それは「決定論」の前提を否定するか、あるいは前提を認めた上でその後の推論を否定するか、です。

前者(前提である決定論を否定する)は結果的に自由テーゼを支持することになりますが、これはいわゆる「リバタリアニズム」の主張になりますが、一言で言うと次のようになります。

「この世界で成り立つ自然法則の少なくとも一部は非決定論的なものである」

リバタリアンは、自由意志が存在するためには「別のやり方で行動できた可能性(Alternative Possibilities)」が不可欠だと考えます。したがって、「決定論は偽である」と主張します。量子力学的な不確定性や、エージェント(行為者)自身が新たな因果の起点となる「エージェント因果」などを持ち出し、因果の連鎖に「隙間」を見出そうとします(難しいのでここでは詳細は省略します)。

著者も述べるように、この主張は私たちの〈肌感覚〉には合うものではありますが、以下の問題があります。第一の問題は、「決定論の主張を、私たちの行為に関するレベルで本当に否定できるのか」という問題です。リバタリアンは、人間の選択の瞬間に「因果の連鎖が切れている(非決定的な隙間がある)」と主張します。しかし、これには大きな壁が立ちはだかります。その壁とは「物理的閉鎖性」「神経科学の知見」「日常の規則性」などです。

第二の問題は「ランダム問題」または「運の問題」と呼ばれるものです。もし私の行為が、直前の原因(私の性格、欲望、過去の経験)によって「決定されていない」のであれば、その行為は「確率的・統計的なゆらぎ」や「偶然」によって生じたことになってしまいます。例えば、Aを選ぶかBを選ぶかが「サイコロの目」のようにランダムに決まったのだとしたら、それは「私が自由に選んだ」のではなく、単に「たまたまそうなった(運が悪かった/良かった)」だけではないか?という問いです。もしそうであれば「責任」の概念は消失します。

「決定論」なら自由はない(原因に縛られているから)ですし、「非決定論(ランダム)」でも自由はない(運や偶然に支配されているから)、というわけで、リバタリアンはこの自由を否定する二つの極の間の細い道を通らなければなりません。

では推論を否定する後者の検討に入りましょう。このような立場は「決定論と自由テーゼは実は両立可能であると主張するため、伝統的に「両立論(Compatibilism)」と呼ばれてきました。」両立論は、決定論という科学的事実を認めつつ、そこから「ゆえに自由はない」と結論づけるのは「自由」という言葉の定義ミスであると批判します。その上で「自由」とは「因果から外れていること」ではなく、「自分の内面的な欲望や信念に基づき、外部からの強制なしに行動できること」だと再定義するのです。たとえ私の脳内プロセスが物理法則(決定論)に従っていたとしても、そのプロセスが「私の意志」として現れ、それに従って行動しているなら、それは自由と呼ぶにふさわしい。つまり、「決定論が真であること」と「(再定義された意味での)自由があること」は矛盾しない、という推論を立てるのです。本書の本章では、「両立論」がさらに2つに分けられ検討されますが、ここではその詳細は割愛します。

以上「自由テーゼ」を擁護する議論を検討してきましたが、当然「決定論が正しいので、自由意志は存在しない。」という立場も存在します。しかし著者は強硬な決定論が現実的な選択肢になるかということに対しては懐疑的です。

さて、これをもって『形而上学とは何か』を終えるわけですが、私はまだ形而上学の入り口に立ったにすぎません。しかし形而上学には哲学のすべての魅力が凝縮されているように感じます。これからさらに奥深く探索していきたいと思っています。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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