今回はちくま新書『フッサール入門』(鈴木崇志)第2章「経験の仕組み」の読書メモを作成してみました。(第1章は【フッサールの肖像】ですので省略します。)フッサールにはじまる〈現象学〉が大切であるのはわかっていましたが、今までほとんど手をつけたことがなく、今回初めてといっていい挑戦です。はたして上手く〈入門〉できているかはわかりません。皆さんの判断に委ねたいと思います。
議論の詳細については、実際に本書を手に取られることをお勧めいたします。記号ルールと使用例は以下の通りです。
【 】 見出し、箇条書きの項目名(例外的な使用はあります):第1章【構造主義】
「 」 他人の言葉(引用): ウィリアムズは「内部理由」と呼んだ。
〈 〉 自分の重要な用語・概念の強調 :ここで〈理由〉の概念を整理したい。
『 』 書名・作品名・雑誌名 :『倫理学の限界』を再読する。
“ ” 英語の原語を示す際 :“thick concepts” という表現について
第2章【経験の仕組み】読書メモ
「「現象」とは言いかえれば「現れ」のこと」である。ものごとが現れるときの様式には〈空想〉と〈経験〉の2つがあるが、本章では主に〈経験〉」の方を取り上げる。〈経験〉とは、「何かがこの世界に現実に存在していることに気づくはたらき」である。「経験の仲介のおかげで、私は世界に関する知識を得ることができる」のである。
自然的経験(素朴な経験)で私たちが受け入れていることは、「世界が存在するということ」である。すなわち、私たちは普段、世界がそこに当たり前に存在しているという『自然的態度(natural attitude)』の中にいるということである。著者の指摘するように、自然的な経験においても、「経験は志向性をもつ」。志向性をもつということは、「何かについて意識するという仕方でそれに向かう」ことである。著者は「現れ」と「現れるもの」を区別する。たとえば、「現れ」とは白くひらひらしたものであり、「現れるもの」は時にはそれが「幽霊」であったり「洗濯物」であったりする。
自然的経験における信念とは「世界あってこその経験」であるが、著者は2つのの問題を指摘する。一番目は、経験によって世界が確かめられるのに、経験を世界の前提にするのは循環になってしまう、ということである。ニ番目は、もし経験の前提になっているものと、経験で確かめられるものが別物だとすると、後者は前者の「像」にすぎなくなってしまう、ということである。本書第2章は、「自然的態度のドグマ(循環と写像のジレンマ)」から「超越論的還元」へと至る論理展開をまとめたものと言える。
フッサールは、自然的な経験から距離をとり、経験にもとづく判断を停止しようとする(「現象学的エポケー」)。ここで停止されるのは、「世界が経験に依存せずに存在すると言う判断」であるが、フッサールの文脈では「存在の定立(positing)」を停止すると言う。重要なのは、世界が「ある」か「ない」かを決めることではなく、その判断を「括弧に入れる」だけであるということである。
ここからが難しいのだが、、、
このような判断を停止したとしても、「その判断を支えている経験は依然として存続している」。その経験が志向性を持っている以上、「志向性が向かう対象は、やはりどこかに存在している」。「どこか」が何を指すかというと、それは「経験の絶対的な内側」である。この「内側」とは、頭蓋骨の中(心理学的な内界)のことではない。エポケーによって、世界そのものが「私の意識にとっての相関者(意味)」として現れる領域のことである。これをフッサールは「超越論的純粋意識」と呼ぶ。
この「世界を経験の内側に引き戻す」操作を「超越論的還元」と呼ぶ。フッサールによれば、「世界が自然的経験を超えている」ことを表すのが「超越的」であり、「自然的経験を超えて、それを可能にしている仕組みを論じる」ということを表すのが「超越論的」である。「超越的」とは単に「外にある」ことではなく、「どれだけ経験しても、そのすべてを一度に捉えきれない(常に裏側がある)」という事態を指す。それに対して「超越論的」は、その「捉えきれなさ(超越性)」を含めて、いかにして経験が成立しているのかという「根拠」を問う態度を指す。
ここで本書の「リンゴの木を経験する」という例を取り上げてみる。本書によれば、「超越論的経験」には、【私 / 把握(意味付与作用) / 感覚与件 / リンゴの木の現れ / リンゴの木】という5項が含まれていることになる。この5項を「項目」「分類」「役割」の順に整理すると、以下のようになる。
私(自我) / 主体 / 経験の源泉
把握(意味付与) / 作用(ノエシス的) / どろどろとした感覚に「意味」を与える働き
感覚与件(ヒュレー) / 素材 / まだ意味づけられていない生データ(色の斑点など)
リンゴの木の現れ / 現れ / 視点によって変わる見え方(射影)
リンゴの木 / 対象(ノエマ的) / 経験のなかに位置づけられた「対象そのもの」
感覚与件は「私」が勝手に作り出したものではなく、外部から「与えられたもの」である。この「与えられた素材」を「把握」が形作ることで初めて「現れ」が生じるというプロセスが、「世界を経験の内側に引き戻す」際の具体的なメカニズムとして機能している。著者の表現を借りれば、超越論的還元において、「世界は、私の経験における「現れ」を通じて「現れるもの」として、それ自体が私たちの経験のなかに位置づけられる」のである。この表現は、フッサールが単なる主観主義に陥ることなく、世界の客観性を「経験の仕組み」として救い出そうとした核心を突いている。