今回はちくま新書『フッサール入門』(鈴木崇志)第3章【経験の分類】の読書メモを作成してみました。議論の詳細については、実際に本書を手に取られることをお勧めいたします。記号ルールと使用例は以下の通りです。
【 】 見出し、箇条書きの項目名(例外的な使用はあります):第1章【構造主義】
「 」 他人の言葉(引用): ウィリアムズは「内部理由」と呼んだ。
〈 〉 自分の重要な用語・概念の強調 :ここで〈理由〉の概念を整理したい。
『 』 書名・作品名・雑誌名 :『倫理学の限界』を再読する。
“ ” 英語の原語を示す際 :“thick concepts” という表現について

第3章【経験の分類】

まず著者は「経験が私の生のなかにどのように位置づけられるかを考えてみよう。」と提起する。その上で「フッサールによれば、私たちの生は、たえず移り変わる体験の流れである。」と述べる。

ここで〈体験〉と〈経験〉をきちんと区別しておきたい。

  1. 体験(Erlebnis:エアレープニス)は、意識の中で今まさに生じている「意識の流れ(Bewusstseinsstrom)」そのものを指す。
    ・内面的な事実: 私たちが何かを見たり、考えたり、喜んだりする際、その「見ること」「考えること」「喜ぶこと」というプロセス自体が〈体験〉である。
    ・直接性: まだ反省(客観的に見つめ直すこと)が加わっていない、生身の意識の動きである。
    ・志向的体験: フッサールは、何かに向けられた意識の活動(志向性)を「志向的体験」と呼ぶ。
  2. 経験(Erfahrung:エアファールング)は、体験を通じて「対象(物や事象)」が自分に対して確信を持って現れること、あるいはそのプロセスを指す。
    ・対象への関わり: 単なる心の動きではなく、目の前の「机」や「木」といった「客観的な対象」を認識するプロセスに重点が置かれる。
    ・統合された体験: 〈経験〉は、バラバラな〈体験〉が一つにまとまり、対象の存在が自分の中で基礎づけられた状態を指す。
    ・時間的広がり: 単一の瞬間の〈体験〉だけでなく、過去の体験との一致や、これからの予期が含まれる、より広い概念である。

例えば、赤いリンゴを見ているときを考えてみる。
・「赤い色を感じている」「丸い形を捉えている」という意識の活動そのものが〈体験〉である。
・それらの体験を通じて、そこに「一つの実在するリンゴがある」と認識し、納得することが〈経験〉である。

フッサールは「すべての経験は体験であるが、すべての体験が(対象を伴う)経験であるわけではない」と考えている。(例えば、対象を指し示さない単なる内面的な感情の揺れなどは〈体験〉だが、具体的な事物を確認するものでなければ〈経験〉とは呼びにくい。)フッサールの「志向性(Intentionalität)」という概念を軸に考えると、〈体験〉という素材を使って、対象を〈経験〉として作り上げていく(構成する)という関係性が見えてくる。

本書も、「体験のなかには、志向性をもつものと、もたないものがある」ことを指摘し、「フッサールは、体験のなかでも、特に志向性をもつものを「志向的体験」と呼び、さらのそれを「意識(Bewusstsein)」と言い換えてもいる。」、「フッサールは、顕在的に対象に向かう意識のことを、とくに「作用(Akt)と呼ぶことを提案している。」と述べている。

話はこれで終わらない。本書では「さらにフッサールは、作用のなかには、充実しているか否かという区別があると主張する。」「こうした作用の充実を説明するために持ち出されるのが、「直観」という用語である。」「空虚な作用と直観が重なり合うことで、充実が生じるのである。」と話は続く。

だんだん分からなくなってきたので、フッサールの言う「直観(Anschauung:アンシャウング)」をわかりやすく簡単に説明してみたい。

フッサール現象学における〈直観〉は、日常で使われる「勘」や「ひらめき」とは全く異なる意味を持つ。一言で言えば、「対象が、単なる推測や言葉だけでなく、自分自身の前に『生(なま)』の姿で直接現れている状態」を指す。

ポイントは以下の3点である。

  1. 「空虚な志向」と「充足」
    フッサールは、私たちの意識が対象に向かうことを「志向」と呼んだが、それには2つのパターンがあると考えた。
    空虚な志向: 目の前にないものを「言葉」や「記憶」だけで考えている状態。
     例:家で「あの喫茶店のコーヒーがおいしいな」と思い浮かべる。
    直観(充足): 対象が実際に目の前にあり、意識が満たされている状態。
     例:実際に喫茶店でコーヒーを目の前にし、その色や香りを感じている。
    この「実際に目の前にあるもので、考え(志向)が満たされること」をフッサールは直観と呼んだ。
  2. 「充実(Fülle)」というキーワード
    直観の特徴は、対象が「充実(Fülle)」を持って現れることである。想像やシンボル(記号)による認識は、対象の一部しか捉えていなかったり、曖昧だったりするが、直観においては対象の色彩、形、質感が「生(なま)」のデータとして与えられる。これをフッサールは「原的に与える(originär gebend)」と表現した。
  3. 「本質直観」:目に見えないものも「観る」
    フッサールのユニークな点は、目に見える具体的なもの(個体)だけでなく、「本質(エイドス)」も直観できるとしたことである。これを「本質直観」と言う。(これについては後述する。)
    ・個別の直観: 目の前の「この赤いリンゴ」を観る。
    ・本質直観: 複数の赤いものを見る中で、「赤さ」という共通の本質や、「リンゴ」という形の本質を、理屈抜きにパッと捉えること。

本書に戻る。
著者は「直観のなかには、知識の獲得につながるものとそうでないものがあることがわかった。」と述べ、前者を「根源的に与える直観」と呼ぶ。ここで重要なのは、与えるのはあくまでも〈直観〉であり、「私が根源にはなりえない」ということである。

著者は『イデーンⅠ』第24節から「すべての原理の中の原理」として以下の文を引用している。
「根源的に与える直観は、どれもみな認識の正当性の源泉である。」
これはいったい何を意味しているのであろうか。ポイントは以下の3点に集約される。

  1. 「根源的に与える直観」とは何か
    ここでいう「直観(Anschauung)」とは、単なる「ひらめき」ではなく、対象が「今、ここに、生身の姿で」自分に現れている状態を指す。
    ・単なる想起や想像: 「昨日の夕食のリンゴ」を思い浮かべる(対象は不在)。
    ・根源的な直観: 「目の前にある、今まさに手に取れるリンゴ」を直接見ている(対象が自らを与えている)。
    フッサールは、このように対象が直接的に、明証性をもって現れている状態を、認識の絶対的な基礎とみなした。
  2. 「認識の正当性の源泉」とは
    私たちが「これは正しい(真実だ)」と判断する根拠を、どこに求めるべきかという問いへの答えである。フッサールは、伝統的な哲学や科学が前提とする「客観的な世界の存在」や「既存の理論」から出発するのではなく、「私の意識にどのように現れているか」という直接的な経験にのみ、正当性の根拠を置いた。「見て取れる(直観される)ままのものを、それが与えられている限界内で、そのまま受け入れよ」これが、この原理が命じている核心である。
  3. なぜ「原理の中の原理」なのか
    あらゆる科学的探究や論理的推論も、最終的には「実際にどう見えるか(直観)」に立ち返らなければ、砂上の楼閣になってしまうからである。
    ・独断の排除: 「きっとこうだろう」という思い込みや理論的な要請を排除する。
    ・事象そのものへ: 偏見を脇に置いて、意識に現れる現象そのものを記述する。これが現象学のモットーである「事象そのものへ(Zu den Sachen selbst!)」を具体化したルールである。

この後で本書では「すなわち対象は、私の意識とは無関係に存在しているのではなく、むしろ私の意識において構成されるのである。」と述べられるが、この一文そのものはフッサール自身の著作にある直接の一節ではなく、著者である鈴木崇志氏がフッサールの「現象学的構成」という考え方を分かりやすく要約・解説した言葉であると考えられる。

『イデーンⅠ』以降の「超越論的現象学」の核心は以下のようになる。

  1. フッサールが言う「構成(Konstitution)」とは、意識がゼロから物質を作り出す(創造する)という意味ではない。
    私たちの意識が、バラバラな感覚データに対して意味を与え、「一つのまとまった対象」として結びつける働きのことを指す。
    ・私たちが「対象」と呼ぶものは、常に「私にとっての対象」として意識に現れる。意識を離れて「それ自体」がどうなっているかは(判断停止=エポケーにより)問わず、あくまで「意識に現れる限りでのあり方」を問題にする。
    ・例えば、机を見るとき、私たちは一度に「全体(裏側や内部含む)」を見ることはできない。しかし、意識が過去の経験や期待と結びつけることで、「これは一つの机だ」という一貫した意味を作り上げる。これが「構成」である。
  2. フッサール自身は、こうした事態をより専門的な用語で表現している。例えば、『デカルト的省察』などでは、「対象は意識に対して『ある』のではなく、意識に対して『成る(構成される)』のである」といった趣旨の記述が繰り返される。また、フッサールは「存在」という言葉を安易に使わず、「存在の意味(Seinssinn)」という言葉を好んで使用した。「対象が独立して存在する」のではなく、「対象が『存在する』という意味が、意識の働き(ノエシス)によって作り出される」と考えたためである。
  3. 鈴木氏の「私の意識とは無関係に存在しているのではない」という解説は、フッサールが提唱した「超越論的主観性」を説明するためのものである。フッサール以前の素朴な考え方(自然な態度)では、「外側にモノがあり、それを意識が写し取る」と考えるが、フッサールはこれを逆転させた。「意識こそが、あらゆる存在が意味を持つための『場』である」としたのである。

本書に戻るとp.124に「フッサールは、基本的に、個別的な対象を根源的に与える直観のことを、「経験」と呼んでいるのである。これに対して、普遍的な対象を根源的に与える直観は、「本質直観」と呼ばれる。」とある。

ここは大切(そう)なので、詳しく見てみる。

  1. 「経験」:個別的な対象の直観
    ここで言う「経験」とは、私たちが日常的に行っている、五感を通じた知覚のことである。
    対象: 「この目の前にある一本のペン」「あの動いている一台の車」といった、時間と空間の中に存在する具体的な個物。
    特徴: 感覚を通じて「いま、ここ」にある個別の存在を直接捉えるプロセスを指す。
  2. 「本質直観」:普遍的な対象の直観
    一方で、フッサールは個別の物だけでなく、「本質(エイドス)」もまた直観の対象になると考えた。これが「本質直観(形相的還元)」である。
    対象: 個別のペンではなく「ペンというもの一般(ペン性)」、あるいは個別の赤い色ではなく「赤という色そのもの」といった普遍的な性質や形相。
    特徴: 具体的・個別の事物を「変異(バリエーション)」させていくことで、それらが共通して持っている「それなしではその物であり得ない不変的な構造」を直接的に捉える知的な洞察を指す。

本章では最後に〈他者経験〉にふれられており、これはこれで大変重要なのだが、ここでは割愛する。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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