今回はちくま新書『フッサール入門』(鈴木崇志)第4章【世界との接触】の読書メモを作成してみました。
記号ルールと使用例は以下の通りです。
【 】 見出し、箇条書きの項目名(例外的な使用はあります):第1章【構造主義】
「 」 他人の言葉(引用): ウィリアムズは「内部理由」と呼んだ。
〈 〉 自分の重要な用語・概念の強調 :ここで〈理由〉の概念を整理したい。
『 』 書名・作品名・雑誌名 :『倫理学の限界』を再読する。
“ ” 英語の原語を示す際 :“thick concepts” という表現について
第3章の復習をしつつ、第4章を先取りしておく。
- 「個別的な対象を根源的に与える直観」とは、目の前にある「これ」という特定の存在を捉える直観であり、以下の3つに分類される。
「超越的知覚」:自分の意識の外側にある「物体」を捉えること。
・例:目の前にある一個の「リンゴ」を見ること。
・特徴: リンゴの裏側は見えないが、私たちはそれを「一個のリンゴ」として直接捉えている。対象が意識の外にあるため「超越的」と呼ばれる。
「内在的知覚」:自分自身の「意識状態」そのものを直接捉えること。
・例:今まさに「悲しい」と感じていること、あるいは「考えている」という自覚。
・特徴: 対象(悲しみ)と、それを捉える意識が同じ場所にある。疑いようのない直接的な確信を伴う。
「価値覚(価値直観)」:対象が持つ「価値(良さ、美しさなど)」を直接感じ取ること。
・例:夕焼けを見て「美しい」と直感すること、あるいは誰かの行為を「正しい」と感じること。
・特徴: 単に「赤い空」という事実を見るだけでなく、そこに付随する「価値」そのものを直接的に受け取る。
- 「普遍的対象を根源的に与える直観(本質直観)」:個別の「これ」を超えて、物事の「本質(エイドス)」を捉えること。
・例:色々なリンゴ(赤い、青い、腐っている等)を頭の中で変形させてみても、どうしても残る「色がある」「形がある」といった「物体としての共通の本質」を掴み取ること。
・特徴: 個別の経験(このリンゴ)を足がかりにしながらも、想像力を用いて「それがそれであるために欠かせない普遍的な性質」を直接的に洞察する。
フッサールの厳密な定義では、他者の心は(自分の意識に直接現れるわけではないため)「根源的に与えられる」ものには含まれず、「類比的併置」などの別のメカニズムで説明されるため、ここでは除外されている。
さて、本書では「 個別的な対象を根源的に与える直観」の記述において、「地平」「ノエマ」「ノエシス」についての説明があるのだが、少々わかりにくいので整理してみる。
- ノエマとは何か(意識される「意味の内容」):ノエマは、私たちが何かを見たり考えたりしたときに、意識に現れる「〜としての対象」のことである。
・例: 目の前のリンゴを見ているとき、単なる光の刺激ではなく、「赤くて、丸くて、甘そうな、一個のリンゴ」として捉えている。この「赤くて、丸くて……」という意味のまとまり全体がノエマである。 - 「ノエマ」の中の構造(核心と地平):ノエマは一枚ののっぺりした絵ではなく、実は「明暗」のような構造を持っている。
・核心(直観的な成分):いま、現にハッキリと見えている「赤い色」や「丸い輪郭」の部分。
・地平(潜在的な成分):いまは見えていないけれど、その「リンゴ」という意味を成り立たせるために不可欠な「裏側」や「中身」の予期。 次に、「ノエシス」と「ノエマ」の関係であるが、これらは意識の働きを「どう働くか(動詞的側面)」と「どう捉えられているか(名詞的側面)」の二角から捉えた概念である。 - ノエシス(Noesis):意識の「働き・作用」そのもの。
・内容: 「見る」「思い出す」「想像する」「愛でる」といった、主観的な心のエネルギーやプロセス。
・特徴: 常に動的で、時間とともに流れていく「体験」の側面。 - ノエマ(Noema):意識の中に現れる「意味としての対象」(志向的対象)。
・内容: 「見られているリンゴ」「思い出されている昨日の夕食」「想像されているユニコーン」など、「〜としての対象」。
・特徴: 私たちが「何を」意識しているのかという、対象の意味や構造の側面。 - 両者の関係:表裏一体のペア(「ノエシスーノエマ相関」)
・働きが変われば、意味も変わる:同じ「一本の木」を対象にしても、それを「実用的に眺める(ノエシス)」のと「美しく鑑賞する(ノエシス)」のとでは、意識に現れる「木の意味(ノエマ)」は全く異なる。
・構造的な一致:「考える」というノエシスには、必ず「考えられたもの」というノエマが対応する。ノエシスがなければノエマは現れず、ノエマがなければノエシスは空虚なままである。
ここでまた本書から重要と思われる部分を引用しておく。「ただしノエマには、言葉の意味によって写し取ることのできない要素も含まれている。」
これは、ノエマには「言葉(ロゴス)で割り切れない、生々しい直観の厚み」が含まれているということである。この後本書ではカントとフッサールの違いが詳しく述べられるが、ここでは長くなりすぎるので割愛する。次に本書の「内在的知覚」の説明に移りたい。まず重要部分を引用する。「まず確認すべきは、内在的知覚が、「反省」と呼ばれる作用の一形態であるということだ。」なぜ「内在的知覚」(自分の意識を見ること)が、「反省(Reflexion)」と呼ばれるのか、その構造を簡潔に解説してみる。
- 「反省」とは「視線を向けること」
ここでの「反省」は、日常語の「後悔して反省する」という意味ではなく、「意識の向きを180度変えること」を指す。
・自然的態度(ふだんの状態): 私たちの視線は、常に「外の対象(リンゴ、仕事、他人)」に向いている。これを「直向的なまなざし」と呼ぶ。
・反省(現象学的態度): 外に向いていた視線を、くるりと自分自身の方へ向け直し、「いま私はどう意識しているか?」を観察する働きである。 - なぜ内在的知覚は「反省」なのか
「内在的知覚」とは、自分の「喜び」や「思考」を直接捉えることだが、それを行うためには「二重の意識」が必要になる。
・直向的な意識: 何かに没頭している意識(例:美しい夕焼けに見惚れている)。
・反省的な意識: その没頭している自分を、一歩引いて観察する意識(例:「いま私は夕焼けを見て感動しているな」と捉える)。
このように、「意識が、意識そのものを対象として捉え直す」というプロセスをたどるため、内在的知覚は必然的に「反省」という形態をとる。
別の部分を引用しよう。「このように現れを介することなく与えられ、いわば私自身の内側で生きられているという意味で、反省の対象となる私の体験は私にとって内在的なのである。」ここで強調されているのは、「内在的知覚(自分の心)」と「超越的知覚(外の物体)」の決定的な違いである。一言で言えば、「裏表や見間違いの余地があるかどうか」という点に集約される。
- 「現れを介することなく」の意味
外にあるリンゴ(超越的対象)を見る場合、私たちは常に「ある側面(現れ)」を通してしか見ることができない。
・外の物体: 正面が見えているとき、裏側は「隠れて」いる。つまり、断片的な「現れ」を介して間接的に全体を推測している。
・自分の体験: いま感じている「痛み」や「喜び」には、「裏側」がない。 痛みはそのなまの質感のまま、丸ごと自分に届いている。これが「現れを介さない」ということである。 - 「私自身の内側で生きられている」の意味:これは、意識の「持ち主」と「対象」が完全に一致している状態を指す。
・外の物体: 意識の外にあり、自分とは別物として存在している。
・自分の体験: 観察する前から、私はその体験を「生き」ている。反省によってその体験に視線を向けたとき、対象(体験)はすでに私の意識の中に「生身」で存在している。 - フッサールにおける「内在」とは、単に「心の中にある」という場所の話だけではなく、「見間違いようのない直接的なあり方」を指す。
最後に本書の「価値覚」の説明を見てみよう。重要と思える部分を引用してみる。「そして常に注意すべきなのは、価値覚が、単に私のなかに何らかの感情がある状態だけでなく、私がその感情のなかで生きている状態 -つまり、当該の感情や、その感情が志向性を向けている対象にひたむきに没頭している状態- を指しているということだ。」
この部分は、フッサールの「価値覚(価値直観)」が、単なる「心の内の主観的な反応」にとどまらず、「世界そのものとダイレクトにつながっている状態」であることを強調している。
- 「心のなかの状態」との違い(主観への閉じこもりの否定)
ふつう「感情」というと、自分の心の中に生じた「ワクワク」や「モヤモヤ」という内面的な現象だと考えがちでであるが、フッサールの価値覚はそれとは異なる。
・単なる感情状態: 「いま、私の心の中に『快い』という成分があるな」と分析的に見ること。
・価値覚: 目の前の美しい絵画に目を奪われ、「この絵は素晴らしい!」と価値そのものを直接つかみ取っていること。
つまり、価値は「自分の頭の中」にあるのではなく、「対象そのものに備わっている属性」として、ダイレクトに感じ取られている。
- 「感情のなかで生きている」という没頭
「ひたむきに没頭している状態」という言葉が鍵である。例えば、あなたが素晴らしい音楽を聴いているとき、あなたは「自分がどう感じているか」を客観的に観察してはいない。むしろ、音楽の美しさに身を委ね、自分と音楽(価値)が一体化しているような状態にある。
・没頭: 意識の矢印が、対象の持つ「価値」に向かって真っ直ぐに突き刺さっている状態。
・生きている: その価値の現れを、理屈抜きで全身で受け止めている状態。 - 志向性のダイナミズム
「その感情が志向性を向けている対象」という表現は、「感情には必ず相手(対象)がある」という現象学の基本(志向性)を表している。
・ただ「嬉しい」のではなく、「この贈り物が嬉しい」。
・ただ「憤っている」のではなく、「この不正が許せない」。
価値覚とは、感情というフィルターを通して、対象が持つ「良さ」や「正しさ」といった価値という名の事実を、なま身で経験することなのである。さらに本書では価値覚の二つの方向への展開の可能性について語られている。第一は「価値判断につながる方向」であり、第二は、「実践的な行為へとつながる方向」である。そしてそれらは「生活世界」へ結び付けられる。これらの結びつきは、現象学が単なる「心の観察」に留まらず、私たちの「生のあり方」全体を記述しようとしていることを示している。
- 第一の方向:価値判断(認識的展開):「価値覚」というなま身の経験が、言葉や論理によって「客観的な評価」へと高められる方向。
・内容: 「この夕焼けは美しい」という直感的な感動が、「この風景は芸術的価値が高い」といった判断や主張に変わること。
・意味: 個人的な「感じ」が、他者とも共有可能な「価値の知識」として定着していくプロセスである。 - 第二の方向:実践的行為(志向的展開):「価値覚」が、私たちの身体を動かし、「行動」へと突き動かす方向。
・内容: 目の前で倒れている人を見て「可哀想だ(価値覚)」と感じた瞬間、助けるために駆け寄る(行為)こと。あるいは、美しい絵を見て「もっと近くで見たい」と足を運ぶこと。
・意味: フッサールにとって、価値を感じることは、それを維持したり実現したりしようとする「意志」や「欲求」と分かちがたく結びついている。 - 「生活世界」との関連:最後にこれらが「生活世界」に結びつくのは、私たちが生きるリアリティの基盤だからである。
生活世界(Lebenswelt)とは科学的なデータ(分子や数値)で語られる世界ではなく、私たちが日々、喜び、悲しみ、目的を持って生きている「意味に満ちた生の世界」のことを指す。
なぜ価値覚が関連するのか
・世界の彩り: もし価値覚がなければ、世界はただの無機質な物体の集まりになる。価値覚があるからこそ、世界は「大切な場所」「危険な場所」「守るべき故郷」として現れる。
・行為の舞台: 私たちが「価値判断」をし、「実践的行為」を行う場所こそが生活世界である。
・結論: 価値覚を起点とした判断や行為の積み重ねが、私たちの「生活世界」の構造(文化、伝統、慣習など)を作り上げている。
フッサール現象学は最終的に、私たちが「いかにこの世界に意味を見出し、いかに生きているか」という生活の根源にたどり着くことを示そうとしているのだと考えられる。