ちくま新書『フッサール入門』(鈴木崇志)読書メモの続きです。「本質直観」はそれ自体では大変重要なのですが、フッサールの「経験」概念に沿った記述をするという本書の性質上【補章】で扱われており、ここでは割愛します。今回は第5章【生きている私】の読書メモを作成してみました。ここは大変難解なので2回に分けて考察を加えてみます。

記号ルールと使用例は以下の通りです。
【 】 見出し、箇条書きの項目名(例外的な使用はあります):第1章【構造主義】
「 」 他人の言葉(引用): ウィリアムズは「内部理由」と呼んだ。
〈 〉 自分の重要な用語・概念の強調 :ここで〈理由〉の概念を整理したい。
『 』 書名・作品名・雑誌名 :『倫理学の限界』を再読する。
“ ” 英語の原語を示す際 :“thick concepts” という表現について

第5章【生きている私】(前半)

この章では「人間としての私」の与えられ方が問われる。「心」に関しては「内在的知覚が重要な役割を果たしている。」しかし「身体」についてはどうであろうか。著者はこう問いかける。「超越論的知覚によって根源的に与えられていると言ってよいのだろうか。」

ここで「キネステーゼ(Kinästhese)」という用語が紹介される。これは、ギリシャ語の「動く(kinein)」と「感覚(aisthesis)」を組み合わせた造語で、現象学的な文脈において、「対象の現れ方」を基礎づける重要な仕組みとして位置づけられている。

  1. 「動く私」と「見える対象」の相関関係
    私たちが物体を見るとき、一度に捉えられるのはその「側面」だけであり、裏側は隠れている。しかし、自分が動く(目を動かす、歩く、手を伸ばす)ことで、隠れていた側面が次々と現れる。
      ・キネステーゼ: 「目を右に向ける」「対象に近づく」といった主観的な身体運動の感覚。
      ・射映(Abschattung): 運動に応じて変化する対象の見え方。
  2. 世界の「構成」における役割
    キネステーゼは、断片的な「見え」を一つの「物体」としてまとめ上げる接着剤のような役割を果たす。
      ・空間の構成: 自分が動くことで視点が連続的に変化し、それによって「広がり」や「奥行き」といった空間が立ち現れる。
      ・客観性の付与: 身体が自由に動くことで「別の角度からも確認できる」という確信が生まれ、目の前のものが単なる幻影ではなく、実体のある「客観的な物体」として構成される。
  3. 「動因(モチベーション)」としての身体
    キネステーゼは、志向性を身体のレベルで支えている。例えば、「あそこには何があるだろう」という意識の志向は、目を動かすというキネステーゼを引き起こし、それによって新しい情報がもたらされる。このように、身体の動きが認識のプロセスを動機づけているのである。

この後本書では「するとさらに問われねばならないのは、そのように超越論的還元を経たあとの経験の主体は誰であるかということだ。」という問いが提出され、「フッサールはこの問いに対して、経験の主体は、体験流の担い手である「私」にほかならないという答えを用意している。」と 答えている。

この記述は、現象学の核心である「超越論的自我(純粋な意識の主体)」への移行を説明している。キネステーゼによって世界が立ち現れる仕組みを解明した後、フッサールは「では、その運動や知覚を統一している『主の正体』は何なのか」という問いに向き合うのである。

  1. 「自然な私」から「超越論的な私」へ
    ここで言う「私」は、肉体や社会的属性を持つ「人間としての私(心理学的自我)」ではない。
      ・エポケー(判断保留): 世界が実在するという前提を一旦停止する。
      ・還元: 残るのは「世界を経験している意識の働きそのもの」である。この「意識の働きの根源」にいる主体のことを、フッサールは超越論的自我と呼んだ。
  2. 「体験流」の担い手としての私
    意識は、刻一刻と変化するキネステーゼや知覚の断片(体験の連続)である。これをフッサールは「体験流(Erlebnisstrom)」と呼んだ。
      ・バラバラな知覚の断片が、なぜ「一つの世界」としてまとまるのか?
      ・それは、それらの体験を束ね、「これは私の経験である」と一貫性をもたらす不動のセンター(極)があるからである。このセンターこそが、体験の「担い手」としての「私」である。
  3. 世界を構成する「責任者」
    キネステーゼを通じて空間や物体が構成されるとき、そのプロセスを最終的に承認し、意味を与えているのがこの「私」である。つまり、世界はどこか外側に勝手に存在しているのではなく、「超越論的な私」という主体による構成の成果である、という結論に至る。キネステーゼの説明の後にこの問いが来るのは、「キネステーゼ」を単なる生物学的な運動としてではなく、「主体による世界の構成作業」として位置づけるためである。

この後「フッサールにとって、体験流が純粋自我のものであるということは、この体験流の唯一性からただちに導かれる主張であったようだ。」という記述があるが、この部分はかなり難解であるので考察を加えてみたい。

  1. 「体験流の唯一性」とは何か
    「体験流」には、決定的な特徴が2つある。
      ・重なり合わない: 私の今の「赤色の見え」と、あなたの「赤色の見え」が物理的に混ざり合うことはない。
      ・中断されない: 眠っている間も、意識の深層では時間は流れ続けており、目覚めたときに「さっきの続きの私」として再開される。

つまり、この体験の束は「世界にたった一つしかない、他者とは隔絶された固有のライン」であり、これが「唯一性」の意味である。

  1. なぜそこから「私(自我)」が導かれるのか
    ここでフッサールは、「なぜこのバラバラな体験(見たり、動いたり、思い出したり)が、バラバラに霧散せず、一つの『流れ』としてまとまっているのか?」と問う。
      ・束ねる力の必要性: バラバラなビーズ(個々の体験)が数珠(流れ)になっているなら、そこには必ず「糸」が通っているはずである。
      ・唯一性の根拠: このライブ放送(体験流)が、他の誰のものでもなく「この一筋の流れ」として成立している以上、その流れを根底で支え、統合している「中心点」がなければおかしい。

フッサールはこの「体験を束ね、この唯一の流れを成立させている究極のポイント」を、純粋自我(あるいは体験流の担い手としての私)と呼んだ。

  1. 「導かれる」という論理のニュアンス
    「体験流が唯一であること」と「それが私のものであること」は、フッサールにとってはほぼ同義であった。「この唯一無二のライブ放送が流れている。ならば、それを独占的に受信し、構成している『受信機(主体)』がそこに居るはずだ」という理屈である。もし主体がいなければ、体験は単なるノイズの破片として四散してしまい、「流れ」にすらならないからである。

わかりやすく言うと「今、この瞬間の私の感じ方や体の動き(キネステーゼ)は、世界中で私だけが直接体験している。この『私だけの専用レーン』が存在すること自体が、そのレーンを走っているランナー(純粋自我)が存在することの動かぬ証拠である」ということである。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です