ちくま新書『フッサール入門』(鈴木崇志)の続きです。今回は第5章【生きている私】の後半の読書メモを作成してみました。

記号ルールと使用例は以下の通りです。
【 】 見出し、箇条書きの項目名(例外的な使用はあります):第1章【構造主義】
「 」 他人の言葉(引用): ウィリアムズは「内部理由」と呼んだ。
〈 〉 自分の重要な用語・概念の強調 :ここで〈理由〉の概念を整理したい。
『 』 書名・作品名・雑誌名 :『倫理学の限界』を再読する。
“ ” 英語の原語を示す際 :“thick concepts” という表現について

第5章【生きている私】(後半)

第5章の前半では「純粋自我としての私」および「体験流」について考察された。後半ではまずフッサールの「時間論」が考察される。フッサールの時間意識論において、私たちが「今」という時間をどのように経験しているかを説明する核心的な概念が「原印象」「把持」「予持」の三層構造である。

  1. 原印象(Urimpression)とは、「今、この瞬間」に新しく現れた生の感覚素材である。
      役割: 絶え間なく湧き出す「点」としての「今」。
      例: 音楽を聴いているとき、まさに今鳴っている「ド」の音そのもの。
  2. 把持(Retention)とは、直前に過ぎ去ったばかりの「原印象」を、意識の中に留めておく働きである。
      役割: 過去の音を「たった今の過去」として、意識の地平に引き止めておく。これは単なる「想起」とは異なり、今という瞬間のなかに、過去が地続きで含まれている状態を指す。
      例: 「ド・レ・ミ」と音が流れるとき、「ミ」を聴きながらも、直前の「レ」が意識の中に響き続けている状態。これがあるおかげで、私たちは音をバラバラの点ではなく、一つの「旋律」として捉えることができる。
  3. 予持(Protention)とは、次にやってくるであろう瞬間を、あらかじめ先取りして待ち受ける働きである。
      役割: 把持と対になり、意識を未来の地平へと開く。
      例: メロディの次の音がどう流れるかを、無意識のうちに予感している状態。

本書では時間論に続いて「自己解明としての現象学」が取り上げられ、「超越論的現象学」における「自我」と「モナド」の関係が論じられる。これらは、主観性の深まりと広がりの段階を示す密接な関係にある。

  1. 超越論的自我:純粋な「意識の拠点」
    これは超越論的還元によって、世界の存在をいったん判断停止した後に残る、あらゆる経験の「中心点」である。
      役割: 「私は考える(エゴ・コギト)」という活動の主体。
      特徴: まだ中身の空っぽな、思考の「極」としての側面が強い段階。
  2. モナド:具体化された「全き自我」
    フッサールは、自我を単なる「点」ではなく、具体的な歴史や習性、経験の蓄積を備えた「具体的な個体」として捉える際に、ライプニッツの用語を借りて「モナド」と呼んだ。
      意味: 「原印象・把持・予持」による時間的流れ、過去の経験から形成された「習性(ハビトゥス)」、そしてそれらに基づく「信念」のすべてを含んだ、「肉付けされた自我」を指す。
      公式: 「自我 + 自我の全生活 + その生活の中で構成された対象(ノエマ)」の総体がモナドである。
  3. 両者の関係:抽象から具体へ
    「自我論」が「モナド論」へと進展するのは、現象学が「静的な分析」から「発生的(時間的な成り立ち)な分析」へと移行するためである。
      自我論の深化: 「ただ見ている私」という抽象的な記述から、「これまでの人生の蓄積を持って世界を構成している私」という具体的な記述へと深まった姿がモナドである。
      相互主観性への橋渡し: モナドとして自分を捉えることで、自分と同じように世界を構成する「他者のモナド」の存在を認める道が開かれ、個人の意識を超えた「相互主観的な世界(共同体)」の議論が可能になる。

本書では「他者」については次章で取り上げられるので、ここでは「自我」の位置付けのみ考察する。まず「超越論的現象学」と「独我論」の関係が問われる。この関係性は、「方法論としての独我論」から「相互主観性による克服」へという流れで整理できる。

  1. 方法論的独我論
    フッサールは、客観世界の存在をいったん保留する「判断停止」を行い、すべての意味の源泉を自らの意識(超越論的自我)に求めた。
      徹底した内省: 世界が「客観的に存在するかどうか」ではなく、「私の意識にどう現れているか」を記述するため、まずは「私」という孤独な出発点に閉じこもる必要がある。
      批判: このため、現象学は「結局、自分の意識の中だけで完結している独我論ではないか」という批判を常に受けることになる。
  2. 他者の構成
    フッサールは、この孤独な自我の中からいかにして「他者」が現れるかを説明しようとした。
      対連(ペアリング): 自分の身体と似た動きをする「他人の身体」を目にしたとき、意識は受動的に自分の身体経験を相手に重ね合わせる。
      移入(感情移入): 「あの身体の内部にも、私と同じように世界を経験する『私(他者)』がいるはずだ」と構成する。
  3. 相互主観性(共同主観性)
    他者の存在が認められると、世界は「私だけの世界」から、「誰にとっても共通の客観的世界」へと変貌する。
      客観性の根拠: フッサールにとって客観性とは、神のような絶対的な視点ではなく、「複数のモナド(自我)の間で共通に認められること(相互主観性)」によって成立するものである。
      結論: 現象学は独我論からスタートするが、それは「他者と共有する世界」がいかにして成り立つかを厳密に証明するための、避けて通れない「通過点」なのである。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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