ちくま新書『フッサール入門』(鈴木崇志)の最終回です。今回は第6章の読書メモを作成してみました。

記号ルールと使用例は以下の通りです。
【 】 見出し、箇条書きの項目名(例外的な使用はあります):第1章【構造主義】
「 」 他人の言葉(引用): ウィリアムズは「内部理由」と呼んだ。
〈 〉 自分の重要な用語・概念の強調 :ここで〈理由〉の概念を整理したい。
『 』 書名・作品名・雑誌名 :『倫理学の限界』を再読する。
“ ” 英語の原語を示す際 :“thick concepts” という表現について

第6章【私から他者へ】

まず、『デカルト的省察』における「付帯現前化(Appräsentation)」と「他者問題」が、独我論を乗り越えるための核心的な概念であることが示される。

  1. 他者問題:なぜ他者は「物体」ではないのか
    フッサールの現象学において、すべての存在は「私の意識が構成したもの」として記述される。しかし、ここで大きな壁にぶつかることになる。
      ・問題の所在: もしすべてが「私の意識の産物」であるなら、他者もまた私の頭の中の「人形」に過ぎないのではないか?
      ・他者の特殊性: 他者は単なる机や椅子とは異なり、自分と同じように世界を経験し、独自の視点を持つ「もう一つの主観(別個の私)」として現れる。この「他者の他者性」を、自分の意識の中でどう正当化するのか?
  2. 付帯現前化(Appräsentation)の仕組み
    他者を直接すべてを経験できるわけではない。そこでフッサールが導入したのが「付帯現前化」という認識のメカニズムである。この語の基本的な定義は「あるものが直接見えている部分(現前)に伴って、直接は見えない部分が同時に意識に現れること」である。

例:サイコロの視覚的経験
私たちがサイコロを見るとき、実際に見えているのは「前面の3つの面」だけである。しかし、私たちはそれを「厚みのない平面」ではなく、見えない裏側も含めた「立方体」として認識している。この「裏側」の現われ方が「付帯現前化」である。

他者への応用
他者の身体を目の当たりにしたとき、私たちはそれを単なる「動く肉塊」とは見なさない。
  ・現前(Präsentation): 目に見える他者の身体(物理的な広がり)。
  ・付帯現前化(Appräsentation): その身体の内部にあるはずの「他者の意識」「他者の感情」「他者の視点」。

私たちは他者の「心」を直接見ることはできないが、他者の「身体」が提示されることで、その背後にある「精神(主観)」が付帯的に現れてくる。

  1. 類比的並置(アナログ的連合)
    なぜ「付帯現前化」が起きるのか。それは、私の身体(固有の身体)と他者の身体が似ているため、「類比」が働くからである。
     1.私は「自分の身体」を動かすとき、そこに「自分の意志」があることを知っている。
      2.目の前に「私の身体」と似た形態・振る舞いをする「他者の身体」がある。
      3.すると、私の意識は自動的に(受動的に)、あの身体にも私と同じような「意志や主観」があるはずだと結びつける(連合させる)。これをフッサールは「類比的構成」と呼んだ。

フッサールはこのロジックにより、世界は私一人で作り上げているのではなく、複数の主観によって共に構成される「相互主観的(間主観的)な世界」であると結論づけた。

*余談であるが、『デカルト的省察』岩波文庫版(浜渦辰二訳)では、「付帯現前化」は一貫して「共現前」という訳語が当てられている。

本書でもふれられているが、フッサールの文脈において、他者経験(他我構成)が抱える「異質感」や「絶対的な隔たり」は、通常の物質的な「超越的知覚」とは決定的に質が異なる。

「超越的知覚」においては、モノの裏側は今見えいなくても、回り込めば「現前」させることができる。一方で、他者の経験は、どれほど親密になっても、あるいは解剖学的に脳を観察したとしても、絶対に「直接現前」することはない。もし他者の経験が私に直接現前してしまったら、それは「他者の経験」ではなく「私の経験の一部」になってしまう。他者が「他者」であるためには、絶対に私には直接届かない領域(異質感の核心)を持っていなければならない。

「判断停止」に関しても、一般的なエポケーと「他者経験」におけるそれは、その適用範囲と目的において重要な違いがある。

  1. 一般的な判断停止(形而上学的エポケー)
    通常の現象学的還元におけるエポケーは、「自然的態度」の遮断を意味する。
      ・対象: 世界の客観的実在性、科学的知識、先入観のすべて。
      ・操作: 世界が「そこに存在する」という信憑を「括弧入れ」し、判断を保留する。
      ・目的: 意識の相関者としての「現象」へと立ち返り、純粋意識(超越論的自我)の領域を確保すること。
      ・結果: この段階では、すべては「私の意識のなかの所与」となり、いわば「超越論的な唯我論(Solipsism)」に近い状態に留まる。
  2. 他者経験における判断停止(他我的エポケー)
    『デカルト的省察』の第5省察で導入されるのは、この「私の意識」の中に、いかにして「自分ではない他者」が現れるかを解明するための特殊な還元(他我的還元)である。
      ・操作: 一般的なエポケーを経た後の純粋意識において、さらに「他者に関連するものすべて」を排除する。(他者によって構成された文化的意味、社会的価値、客観的な「共有された世界」という性格をすべて剥ぎ取る。)
      ・目的: 他者が介在しない、純粋に「私自身のもの(Eigenheit)」だけの領域、すなわち「固有領域」を画定する。

この「固有領域」への還元の後に、フッサールは「対化(Paarung)」や「類推的並置(Appresentation)」といった概念を用いて、私の身体に似た別の身体(肉体)の中に、私とは別の「心」を統覚するプロセスを記述していく。

ここで本書では「受動的綜合」という語が紹介されるが、これがまた難しい。しかし、フッサール現象学における「他者経験」と「受動的綜合」の関係は、他者が「物体」としてではなく、自分と同じ「自我」として立ち現れるメカニズムを説明する上で非常に重要である。

  1. 受動的綜合
    受動的綜合とは、自我が意識的に「考えよう」としなくても、意識の深層で自動的・連想的に行われる意味形成のことである。私たちがリンゴの裏側を見なくても、それを「一つの丸いリンゴ」として認識できるのは、過去の経験に基づいた受動的な連想(綜合)が働いているからである。
  2. 他者経験における「対化(Paarung)」
    他者経験において、この受動的綜合は「対化」という形で行われる。
      ・プロセスの発生: 私の視界に、私の身体(固有の身体)と似た形態や動きを持つ「動く物体」が入ってきたときに作動する。
      ・連想の働き: 私の意識は、その「似た物体」と「自分の身体」を、意識的な判断を介さず受動的に結びつける。これが「対化」と呼ばれる受動的綜合の一種である。
  3. 他者経験の成立(類推的並置)
    対化が起こると、受動的綜合によって以下のプロセスが進む。
    意味の転移: 「自分の身体には心が宿っている」という経験的な意味が、受動的に相手の身体へと転移(置換)される。
    類推的並置(アプリゼンダツィオン): 相手の身体の内部(心)は直接見ることはできないが、受動的綜合によって「あちらの身体にも、私と同じような内面(自我)があるはずだ」という確信が、現在の知覚に付け加えられる。

フッサール現象学において、「触発(Affektion)」は受動的綜合が始まるための「最初の火花」のような役割を果たす。
触発とは、意識の外側(あるいは深層)から何らかの対象が私の意識に「訴えかけてくる」ことである。私が意識的に目を向ける前に、ある対象が目立って立ち現れ、私の関心を惹きつけるエネルギー(触発的な力)を持っている状態を指す。

他者経験において、触発は受動的綜合(対化)を起動させるトリガーとなる。
  ・異質な身体の出現: 私の環境の中に、ある独特の形態を持った「物」が現れる。
  ・触発の発生: その「物」が持つ形態や運動が、私の「自分の身体」の感覚と共鳴し、私の意識を強く刺激する。
  ・受動的綜合への移行: この触発の力によって、意識は強制的にその対象に注目させられ、瞬時に「私自身の身体」との類似性に基づく受動的綜合(対化)が始まる。

「対化」「触発」に引き続き、「類比による把握(analogische Auffassung)」という語も紹介される。これは、直接見ることができない他者の「内面(自我)」を、私たちがどのようにして「他者のもの」として理解しているのかを説明する概念である。

  1. 概念の核心:直接性の欠如を補う
    現象学の原則では、本来「経験」とは直接的な所与(目の前にあること)を指す。しかし、他者の心そのものは、私は決して直接経験することができない。(もし直接経験できれば、それは私の心になってしまう)。この「直接見えないもの」を、「今ここにある身体(肉体)」を媒介にして、間接的に「他者の自我」として捉えることが「類比による把握」である。
  2. 成立のメカニズム
    この把握は、以下の3つのステップが瞬時に、かつ受動的に行われることで成立する。
      ・身体の類似性(対化): 私の視界にある「あちらの身体」が、私の「自分の身体(キネステーゼを伴う肉体)」と似た振る舞いをしていることを察知する。
      ・意味の転送: 私は自分の身体について「この肉体には心が宿っている」という経験を常に持っている。その意味が、類似した「あちらの身体」へと類比的(アナログ)に転送される。
      ・類推的並置(アプリゼンダツィオン): その結果、あちらの身体は単なる物質ではなく、「私とは別の視点を持った自我が宿る身体」として、現在の知覚に「付け加わった状態」で把握される。
  3. 「推論」との決定的な違い
    ここで注意が必要なのは、これが論理的な「推論(推理)」ではないという点である。
      ・推論: 「あの身体は私に似ている。ゆえに、あそこにも心があるに違いない」と頭で考えること。
      ・類比による把握: 考えるよりも先に、知覚のレベルで「他者」として見えてしまうこと。

フッサールはこれを「知覚の一種」として扱う。遠くに見える建物の「裏側」を、見えていなくても「建物の裏側がある」と把握するのと同様に、他者の身体の「内側(心)」を、見えていなくても「そこに他者の自我がある」と把握するのである。

フッサールはこの「最も基本的な他者経験」を Einfühlung と呼ぶ。フッサールにとっての Einfühlung とは、単なる心理的な共感ではなく、「他者の身体を、私と同じように『心を持った身体(固有身体)』として経験する独特の知覚様式」を指す。これまでの「類比による把握」や「受動的綜合」は、すべてこの Einfühlungがどのようなメカニズムで成立しているかを説明するためのものである。本書では、 Einfühlung はあえて「感情移入」ではなく「エンパシー」というカタカナ表記が採用されている。この後、フッサールのエンパシー論に対する反論、エンパシーとは別の他者経験が検討されるが、ここでは割愛する。

しかし、フッサールの相互主観性の議論は、独我論を完全に打破できたのであろうか。結論から言えば、「超越論的レベルでの独我論の克服には至らなかった」という批判が一般的であるが、一方で「他者との共在を記述する地平は切り拓いた」と評価される。フッサールにとって、他者は「私の外側に実在するモノ」として証明すべき対象ではなく、「私の経験の中に最初から組み込まれている地平」であった。彼が独我論から「抜け出した」と言えるのは、単独の主観性が実は最初から「他者への志向性」によって貫かれていることを記述し得たからだと言える。しかし、他者を「私による構成物」という枠組みから完全に解放できなかったという点では、デカルト以来の主観性の哲学の円環の中に留まった、というのが現代的な評価である。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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