川瀬和也『ヘーゲル(再)入門』 (集英社新書)を数回にわたって紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し手に取っていただければと思います。「    」は原則引用部分です。

恥ずかしい告白をしますが、哲学史上のビッグ・ネームのうち、まったく手をつけたことがないのがヘーゲルで、まさに翻訳でも原典を1行も読んだことがありません。こんな私が今回(再)入門書に挑戦してみました。最後まで読み通せるか、途中で挫折しないか、見当違いなコメントを連発しないか、心配なことは多々ありますが、大目に見てやってください。

【はじめに】
冒頭で、「ヘーゲルが「体系の完成者」というイメージは過去のものである」と宣言されます。実は加藤尚武も『哲学の歴史7』(中央公論社)に、ヘーゲルを「せっかくのアイディアを何も完成しなかった哲学者」と書いていて、昔読んだときにびっくりした記憶があります。それを思い出しました。

川瀬はヘーゲルを「体系の完成者」ではなく、「流動化する、ダイナミックな体系を作ろうとした哲学者」と捉え直します。注意すべきなのは、「ヘーゲルは体系を志向していなかった」とは書いていないことです。志向していたが、完成しなかった、いやこの後を読むと、体系を志向するというプロセスがすなわちヘーゲルの「体系」だった、のでしょうか。

流動性とは「思考のダイナミズムがそのまま文章に投影されているように感じられる」ということだそうです。そうだとすれば、ドイツ語読めなきゃダメなのでは、と思いますが。。。

流動性には、「思考のダイナミズムを表す」以外の役割もあります。それは、古いヘーゲル批判のイメージが単純化されて再生産されていることに対する対極のイメージを提供するという役割です。古い批判の代表として、ラッセルとドゥルーズが挙げられています。そういえば、今から40年くらい前、デリダやドゥルーズが流行っていた頃、ヘーゲルこそが乗り越えられるべき最後の大きな障壁のように語られていましたが、彼らのヘーゲル批判もまた乗り越えられるべきなのでしょう。

最後に、本書で主に『精神現象学』と『大論理学』が扱われる理由が述べられます。それはこの二つが、数少ないヘーゲル自身のまとまった著作だからです。まあヘーゲル読んだことのない私でも、『大論理学』重要そうだなとなんとなく感じてはいました。

【第一章 『精神現象学』と流動化】
一 『精神現象学』とはどのような書物か

本書では「流動性」という観点を重視し、「原著者が十分に論じきれなかった箇所を解釈によって補う、創造的な読みを提示することを目指す」とされます。まあ後半の部分は、読書というものは常にこういうものだと思いますが。

『導入』としての『精神現象学』
「『精神現象学』がヘーゲル哲学ないしその体系の全体ではないことだけは明確」であり、むしろヘーゲル哲学の導入であるとされます。日本では『精神現象学』だけが特別扱いされているので、あえてこう書く必要があるのでしょう。ところで、『精神現象学』には多彩なトピックが登場しますが、全体を貫くテーマは一体何なのでしょうか?

二 つぼみから花へ、花から果実へ

この表現はしばしば「弁証法」と関連づけて紹介されますが、ヘーゲル哲学=「弁証法」=「正反合」という図式は、ヘーゲルの著作のどこにも見つからないそうです(ヘーゲルの著作をすべて読んだ人にしか言えない言葉ですね)。ではヘーゲルが、つぼみ・花・果実の比喩を使って説明しているのは何でしょうか。著者はそれは「「流動性」の重要さ」であると述べます。
「・・・流動性をその本性として持つものの中では、対立するかのように見えた諸契機が一つの全体をなし、すべてが等しく必然的なものとして存在する。」
諸契機は難しい表現ですが、「全体の中の要素としてのみ存在するもののことを、ヘーゲルは契機と呼ぶ」と解説されています。

この植物の比喩が示すのは、哲学の流動的な本性です。複数の哲学体系の間には、矛盾が見出されるばかりのように思えますが、「ヘーゲルは、(・・・)そうした相違を「真理の進行的な発展」と見なすべきだと考えている。」ということです。さきほどの表現を用いれば、一見対立する学説も「すべてが等しく必然的」なのです。ここいらへん、やはりヘーゲルが過去の学説をすべて網羅した(流動的ではあるものの)「体系」を志向していたんだなあ、という感じがします。

ヘーゲルは、『精神現象学』の序文において著作の目的を提示しません。なぜなら哲学書においては、その流動性ゆえに、あらかじめ目的やほかの著作との関係を述べておくことはできない」からなのです。

三 近代の哲学研究と流動化

ヘーゲルは、古代ギリシャにおける哲学研究と、近代(ヘーゲルの時代)の哲学研究を対比し、前者が「自然な意識を本来の仕方で十分に教育すること」であったのに対し、後者にはすでに「抽象的な形式がすでに用意されて」おり、「この形式を我がものとすること」が近代の哲学研究だとします。これをヘーゲルは、「内なるものを媒介なしに外へ追いたてること」と批判しています。これは何を意味しているでしょうか。

ヘーゲルは、「媒介されていること」を重視します。媒介とは、「直接」の対義語です(たしかにimmediateはmediaの反意語になっています)。筆者はこれを「直接的なものを手にするのではなく、適切に加工すること」と肯定的に捉え直します。

以上をまとめますと、ヘーゲルの問題意識とは、「古代においては、生活の中で実際に手を動かして試行錯誤することによって、「媒介」が達成されていた。(・・・)しかし近代においては、知識にはこの媒介が欠けている」それゆえ、近代においては、知識を適切に加工し(媒介し)、我がものとしなければならないのです。

ヘーゲルは「現在では、(・・・)凝り固まった規定された思考を止揚することによって、普遍的なものを現実化し、それに生気を与えることに苦労がある。」と言い、すでに確立されている哲学体系の問題点を止揚(既成の哲学体系を現実と結びつけて理解する)し、これによって思考を流動化させることが必要なのであると考えます。止揚はさきほどの媒介に近い意味でしょうか。「普遍的なものを現実化し」とありますが、「抽象的なものを具体化し」とは異なるのでしょうか。

四 『精神現象学』と流動性

前項で出てきた「流動性」についてもう少し考えてみましょう。
「「自らを契機だと認めること」が、「思考が流動的になる」ことなどだとヘーゲルは言う。」と著者は解説します。「契機」については、植物の比喩のところを参照してください。

「自分で考えてたどり着いた結論としての「純粋な確信」(・・・)に固執していては、最終的に真理に至ることはできない。私たちはたどり着いた結論を断念しなければならない。しかしそれは、(・・・)「凝り固まったものを手放すこと」である。これはつまり、その確信を流動化させることであり、その確信が契機にすぎないことに気づくということだ。」

著者は「ヘーゲルはここで、思考と知覚の二者を、互いを必要としあう契機として捉えようとしている。」と指摘し、以下のように整理した上で、哲学的な思考はこの両者に自覚的でなければならないとします。
「思考が知覚を必要とする」新たな知覚によって、それまでの思考が改訂されること
「知覚が思考を必要とする」知覚されたことがらは、(・・・)思考のはたらきを通じて初めて、私たちにとって意味を持つ

このヘーゲルの考え方は『精神現象学』の記述スタイルにも影響しています。『精神現象学』では、主人公たる「意識」が、様々な経験において自分が正しいと信じていた「確信」が間違っていたことに気づく。この確信の誤りに気づくプロセスが真理であるのです。

最後に自分にとっての真理を発見するビルドゥングスロマンとは違って、「ヘーゲルにおいて真理は、探究の結果たどり着くべきゴールではない。そうではなく、探究のプロセスそのものが真理である。」のです。これを表しているのが「流動化」という言葉なのです。

以上、【はじめに】と【第一章】をまとめてみましたが、さすがにヘーゲル、入門書でも超ムズカシイです。読み間違いもたくさんあると思います。それでも何とか【第二章】以下に「登攀」してみたいと思います。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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