今回扱うのは、山口真由『世界一やさしいフェミニズム入門』 (幻冬社新書)です。今回は第四章と第五章をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。*の後は私の個人的な「感想」です。
ところで昨日紹介したJ.S.ミルの『女性の解放』ですが、英語版kindleはタダで読めます(The Subjection of Women ) 。原題は『女性の服従』なのですね。。。さて本題に入ります。
【第四章 マルクス主義 フェミニズムの希望】
「「抑圧からの解放」というマルクス主義の理論をよりダイレクトに取り入れたのがマルクス主義的フェミニズム」です。
マルクスの話の前に、山口は「ラディカル・フェミニズムを支える理論的支柱は、ジークムント・フロイトに求められる。」と書きます。
* しかし!待ってくださいよ。この本のベティ・フリーダンのところで、山口は「女性が男性に依存する道を選んだのには、フロイト理論の影響がある」と指摘していたのではなかったでしょうか。フロイト理論は女性を抑圧する原因でもあり、かつ抑圧を解放する手段にもなりうるのでしょうか?
山口は、フロイト理論は、「抑圧への適応であって、解放ではなかったのだ」と結論づけます。
* 私は山口と意見が違って、フロイトは、抑圧へ「適応」するための手段を考えたのではないと思います。山口は、フロイト理論の射程を、あまりにも狭く見積もりすぎているのではないでしょうか。
フロイトとは異なり、マルクス主義の分析の対象は、あくまでも「市場」でした。そこで、「「家庭」における搾取の構造を、マルクス主義を利用して説明しようとした」のが、マルクス主義フェミニズムです。その主張は「家事労働に賃金を」という、ダラ・コスタ等のスローガンに集約されます。この主張には賛否両論ありましたが、「「家事労働」は「家父長制」と並んで、第二波フェミニズムを特徴づけるキーワード」となりました。
*「家父長制」が社会的産物なのか、それとも生来の男女の違いの結果なのかについては、学者の間でも意見が分かれています。ややこしいのは、家父長制の中にも父系制と母系制があることです。それにしてもフェミニズムが参照する「マルクス主義」が、マルクスそのものとどこまで同じで、どこから違うのか、いろいろ勉強しなければいけないことがたくさんありますね。(まず『資本論』読めってことですね。)
マルクス主義フェミニズはマルクス主義をそのまま信奉していたわけではありません。
クリスティーヌ・デルフィ等は、家事労働がマルクス主義の枠外におかれていることに、異論を唱えました。彼女たちの主張は、「愛という名の支配」が、家事が労働に組み込まれることを阻止してきたと主張します。
*「愛という名の支配」と言われて「そうだよなあ」と思う人と、「え、ちょっと待って」と思う人がいると思いますが、私は後者です。家事はやはりマルクスが言う「労働」とは異なるような気がしますが。。。
ところが、この主張も、専業主婦が減少するにつれて、その効力を失っていきます。それでもマルクス主義フェミニズムの功績は色褪せません。なぜなら「男女間の間に横たわる問題を、(・・・・・)、男女の間のパワーの分配という社会構造の深層へと掘り下げた」からです。その運動の目的は「女性という被支配階級の解放」であると明確化されます。
しかし、マルクス主義フェミニズムは「生産」(production)に重きを置きすぎたため、その理論から「再生産」(reproduction「生殖」)が抜け落ちてしまうことになります。
*そういうわけで、マルクス主義フェミニズムは、reproductionを、労働力の「再生産」と捉え直しますが、しかし、それこそが「生産」中心のマルクス主義の考え方に絡めとられてしまっていると言えるのではないでしょうか。
ラディカル・フェミニズムが告発する「家父長制」と、マルクス主義フェミニズムが告発する「資本制」は一元的に捉え直され、「家父長制は資本制に従属するサブシステムである」という主張が繰り広げられることになります。しかしこれもマルクス主義の理論性を擁護することがその動機でした。これを「ハイジ・ハートマンは「マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚」と語る」のです。
この章の山口によるまとめです。
「マルクス主義フェミニズムは、この世の支配のシステムが多元的であり、そして、資本家による労働力の搾取と同様に、男性という階級による女性の抑圧が行われていることを看破し、ここにフェミニズムとしての独自の場所を見つけ出したのだ。」
【第五章 異質なカルチュラル・フェミニズム】
ここでアメリカではややメインストリームから外れているとされる、カルチュラル・フェミニズムを紹介しましょう。このフェミニズムは、「男女の文化的な差異までも、”本質的”なものだと考え」ます。
『もうひとつの声』において、キャロル・ギリガンは「「正義の倫理」という物差しとは別ベクトルで「ケアの倫理」という基準がある」と語ります。しかし、この考えは保守派の家庭政策にうまく利用されてしまったのでした。
* 邦訳は『もうひとつの声で』と改題さえて新装版が出ました。それはそうとして、「男女が本質的には異なる」という主張は、頷けるものがあります。たとえば、最新の科学の知見でも、「妊娠14週あたりまで、Y染色体を持った胎児は母親のお腹の中で自分自身で作ったテストステロンのシャワーを浴び、外性器のみならず、脳までも男らしくなる」と考えられています。(今このことの是非は論じません。)
わかりやすく言うと、カルチュラル・フェミニズムは、〈女らしさ〉を象徴する「ケア」の役割を高く評価すべきである。という方向性を取ります。(本書では、「ボクシングの世界王者(男性)が稼ぐファイトマネーと同額の報酬が、編み物選手権優勝者(女性)に支払われるべきだ」という例が挙げられています。)
カルチュラル・フェミニズムは、しだいにエコフェミニズムと連携していきます。
エコフェミニズムとは、「自然の破壊と女性の抑圧との間に重大な関連性がある」と主張し「地球を癒す存在として女性を定義」します。エコフェミニズムの中には、ヴァンダナ・シヴァのようにグローバリゼーションへの異議申し立てをするなど、政治的にラディカルな立場をとる者も現れます。エコフェミニズムは「人間による自然の支配と男性による女性の管理を二元的に批判」します。
*イメージ的には「母なる大地」のように、納得できるものではありますが、理論的には拡げすぎのような印象もあります。
*今後も繰り返し同じことを書くと思いますが、「フェミニズム」を「反資本主義」「反グローバリゼーション」「地球環境問題」「エコロジー」「動物倫理問題」「ケアの倫理」などと結びつけて論じる場合に、それが本当にそうであるか、精緻な検証が必要です。たとえば資本主義を批判するなら、資本主義を厳密に定義した上で、なぜ資本主義が性差別の原因となっているのか「証拠を挙げて」精密に論証し、資本主義でなければどの体制にすべきなのか具体的に論じることができなければ、それは単なるアジテーションに過ぎません。
[…] 次に「ケアの倫理」が検討されます。これは『世界一やさしいフェミニズム入門』(2)で少しふれました。この本でも同じようにキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』が取り上げ […]