今回扱うのは、山口真由『世界一やさしいフェミニズム入門』(リンク) (幻冬社新書)です。今回は第六章と第七章をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。*の後は私の個人的な「感想」です。
【第六章 セクシー&エンパワメントの波、男女の解体
1980年代は、1970年代への反動として「新自由主義」が台頭します。「「新自由主義」は、市場に競争を打ち立てる一方で、家庭においては保守性を発揮」しました。本書ではイギリスのサッチャー政権、アメリカのロナルド・レーガン政権の例が挙げられています。特にアメリカでは、「モラル・マジョリティ(Moral Majority)」という宗教組織が、テレビ,ラジオを通じ反共主義,反・反核運動などの活発な政治的宣伝を行ないました。
*「モラル・マジョリティ」は、聖書の創造説を固く信じ,進化論を否定する立場に立ち、妊娠中絶禁止を唱える点で、現在のトランプ政権に似ていますね。
前回のカルチュラル・フェミニズムまでが本書では第二波とされましたが、その特徴は、セックスとジェンダーが切り離されたことでした。第三波においては、セックスとジェンダーが細分化され、マイノリティに対する「複合的な差別行動が問題視」されるようになります。
1989年には、キンバリー・クレンショーによって、「インターセクショナリティ」という言葉が使用されましたが、これは、人種や性別、階級、性的指向、性自認など、個人の属性が組み合わさって起こる差別や抑圧を理解するための概念です。インターセクショナリティの語源は「交差する、交わる」という意味の「intersect」で、「交差性」と訳されます。
*「インターセクショナリティ」は、黒人女性が経験する多面的差別や複雑な支配構造を考える上では重要な視点でしたが、フェミニズムの運動としては、かえって焦点が定まらなくなってしまった面もあります。
第三波のフェミニズムは、第二波にように男性に対して敵対的ではありません。個人のエンパワメントを強調します。女性たちは、「羞恥を感じることなくセックスにイエスといい、ポルノを鑑賞する権利もあると主張」します。
*empowermentとはCambridge Dictionaryによると、the process of gaining freedom and power to do what you want or to control what happens to you:です。用例としてはfemale/youth empowerment, political/economic empowerment, Part of the philosophy of the World Wide Web is the empowerment of the individual.などがあります。
当然以上のような考え方は、第二波との間に軋轢を生みます。また運動が商業利用されることにもなります。なぜかと言うと、女性は消費の主体であると同時に、「消費される客体へと身を落とす」からです。もっと具体的に書きますと、女性は消費する権利を行使することによって、ますます自らが「理想の女性」という商品になることをを目指してしまうということです。(ダイエット、コスメ、エクササイズを連想してみてください。)商業そのものが、あるいは資本主義が、男性が女性を搾取するシステムなのでしょうか。
この第三のフェミニズムは「低俗文化」として批判され、また「男性支配の構造に容易にからめとられる危うさを秘めている」と懸念されます。
*本書では第三のフェミニズムを表現している例として、テレビ・ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』が取り上げられます。当時私もDVDで視聴したことがあるのですが、どうも面白さが分からず、、、でしたが、フェミニズムの歴史の流れの中で考えますと、登場人物の女性たちが何を代弁していたのかが、よく理解できます。しかしながら、ここで表現されている「フェミニズム」は、もはや「運動」と言えるのでしょうか。ただのファッションのようにも思えます。
ところが、「インターセクショナリティ」という語の登場わずか1年後に、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』(1990)という画期的な著作が生まれます。
*ちなみに『ジェンダー・トラブル』は、『Googleが選ぶ思想書100』で5位に選出されています。例によって私はこの有名な本もまだ読んでいないのですが、いずれ挑戦しなければいけません。幸い最近『バトラー入門 (ちくま新書) 』という良い本が出版されましたので、このサイトでも近いうちに紹介したいと思います。そういうわけで、これからまとめるバトラーの思想の概要は、様々な解説の寄せ集めであり、バトラーの原典に当たったものではありません。
*バトラーは『ジェンダー・トラブル』において、ジェンダーの「パフォーマティヴィティ」という考え方を提案しています。この考え方は、ジェンダーは日常の反復的な実践を通して都度打ち立てられるというものです。「パフォーマティヴィティ」に関しましては、『バトラー入門』の著者藤高和輝氏による研究論文『J・バトラーのジェンダー・パフォーマティヴィティとそのもうひとつの系譜』がありますが、ここでは京都大学の山内裕先生のブログ『ジェンダーのパフォーマティヴィティ』を引用しながら考察していきたいと思います。
以下「 」が引用部分です。
「パフォーマティヴィティとは、何か現実があって、それを説明するという関係性を逆転させることを言います。つまり、説明するという行為が、現実を構成すると捉えます。」
「ジェンダーのパフォーマティヴィティは、日々のジェンダー化された実践によって、ジェンダーが構築されてしまうことを指します。」
「ジェンダーのパフォーマティヴィティとは、そもそも性別という概念自体が何か自然に、解剖学的に存在している本質かのように捉えることを否定します。つまり、ジェンダーとは不確かなものでしかなく、そんな本質などないということです。男と女という区別は、おそらく歴史上もっとも強固に信じられてきた区別のひとつではないかと思いますが、そんなに確かなものではないということなのです。XY染色体であっても女性の方はおられるし、XXで男性もおられるし、染色体が3つある人など、一定数の方が規範におさまらないということです。染色体で考えるなら、どうしても女性と男性の二元論で区別することは破綻してしまいます。」
*話は政治一般や、二元論の否定にまで及びますが、必ずしもフェミニズムの話に収まらないので、ここでは割愛します。フェミニズムだけの文脈で言えば、バトラーが批判するのは、「日常の反復的な実践を通して、あたかも本質として存在するかのように構築される男女の二元論や異性愛のモデル」なのです。
山口は「バトラーは、この男性と女性という二次元的な性規範を、社会によって課せられた罠に喩える」「こうしてバトラーは、第二波フェミニズムが所与の前提としていた「女たち」という概念を解体した」と述べます。
ここで「性自認(シス・ジェンダー/トランス・ジェンダー)」と「性指向(ストレート/ゲイ/レズビアン)」の区別をしておきましょう。「性自認」とは「自らの性別をどう捉えるか」、「性指向」とは「どの性別を恋愛の対象として指向するか」です。この後本書では、この2つの概念について図を使って細かく説明されるのですが、ここでは省略します。
山口は、「セクシャリティの告白を深刻なものにしてきたのは、個人ではなく社会ではないか」「ノンバイナリーを含めて、確実に細分化されつつあるジェンダーやセックスの紐帯は、新たな分類や困難を私たちに突きつける。」述べます。
*バトラーは、フェミニズムの運動に内在する認識の変革をもたらしましたが、フェミニズムの運動には必ずしも方向性を示したわけではないと思います。
*本題と関係ないですが、バトラーの博士論文は『欲望の主体:ヘーゲルと20世紀フランスにおけるポスト・ヘーゲル主義』だそうです。前回、マラブーの話を書きましたが、どこかで繋がっているかもしれません。
第三波においては、セックスとジェンダーが細分化され、ついにはそもそも「セックス」と「ジェンダー」という概念がそもそも本質としては存在しないことを示しますが、この後第四波として「男性を排除せずに、むしろ当事者として包含するフェミニズムの動きが生まれる」のです。
山口によれば、キーワードは「カジュアルに、ネットで、誰とでも」です。
「誰とでも」とはどういう意味かと言いますと、「男性を排除せずに、むしろ当事者として包含するフェミニズムの動きが生まれる」ということです。その中心人物であるナイジェリアのチママンダ・ンゴズィ・アーディーチェは「自分の潜在能力を発揮するために、ジェンダーの固定観念からの解放が双方の性にとって重要だと主張」します。
*フェミニズムがその対象とする男性・女性の「セックス」「ジェンダー」が解体される上に、運動の主体もまた女性ではなく「誰でも」になる事態は、時代の必然のようにも思えますが、たしかに運動としては見えにくくなります。
実際「資本主義と家父長制というこの社会の支配システムを根本から変革」しようとしない現状追認のスローガンは、もはやフェミニズムと呼べないのかもしれません。
この章ではこの他「トリクルダウン・フェミニズム」、♯MeeToo運動についても述べられますが、ここでは割愛します。
【第七章 日本のフェミニズム】
山口はまず「わが国のフェミニズム論争は、常に、母性を中核として展開されてきた」ことを指摘します。そして、
与謝野晶子と平塚らいてうの間で交わされた「母性保護論争」が紹介されます。
この後戦中戦後を経て、1970年代日本のフェミニズムは、ウーマンリブ運動として再び息を吹き返します。その中心人物は田中美津で、「男にとって女とは、母性のやさしさ=母か、性欲処理機=便所か、という2つのイメージ」しかないことを告発します。また「中ピ連」は、名前の通り、中絶とピルの解禁を掲げて過激なスタイルで活動しました。1980年代には有名な「アグネス論争」では「社会が共有する母性幻想」が白日のもとに晒されました。
*アグネス・チャンとは元アイドル歌手で、私と同世代です。「アグネス論争」とは、母親が職場に幼子を連れて行っていいかという話です。
この章ではさらに、「エコロジー運動をフェミニズムと関連づけて理論化した」青木やよひが紹介されます。上野千鶴子はアグネス論争にも登場しますが、「エコ・フェミ論争」にも登場し、「母なる自然」に異を唱えます。
*青木VS上野の論争は『フェミニズムはどこへゆく』にまとめられており、今でも中古で入手することができます。エコ・フェミニズムは面白い観点だと思いますが、まだそのものズバリの書籍は出版されていないようです。
以上、与謝野VS平塚から青木VS上野までを概観して、山口は、日本的フェミニズムを「男女を本質的に異なるものとして「母であれ」と称揚する」と述べます。
*上野千鶴子と言えば『スカートの下の劇場―ひとはどうしてパンティにこだわるのか』(1989)を昔読みましたが、期待していた?エッチな話はなく、というか無機的に書かれており、そうかと言って哲学的にも面白くなかった記憶がありますが、今読むと感想が変わるかもしれません。最近は「おひとりさま」で有名な上野ですが、実は隠れたパートナーがいたみたいな、週刊誌的ゴシップも読んだけれど、忘れました。
この章の最後で山口は、日本のフェミニズムが国際社会において異質であること、さらにそれを外側に発信する力の弱さを指摘しています。
*この著者山口氏はテレビのコメンテイターとして有名らしいのですが、私はそういうことは一切知らず、したがって何の先入観もなくこの本を読みました。客観的に様々な立場を紹介し、けっして特定の結論に強引に結びつけることをしない(これは重要!)という点で、なかなか良い本であったと思います。
[…] ーキンとジュディス・バトラーの思想が紹介されます。バトラーにつきましては『世界一やさしいフェミニズム入門』(3)で扱いましたので、オーキンについてだけ簡単にまとめます。 […]