今回は、児玉聡『功利主義入門』 (ちくま新書)の第6章をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし「功利主義」のように、引用でなくてもある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は、私の個人的な「感想」です。
【第6章 幸福について】
功利主義は「最大多数の最大幸福」をスローガンとしているわけですから、さぞかし「幸福」について考察しているのかと思いきや、倫理学で「幸福」の問題が取り上げられる機会は少ないのが現状のようです。
* 哲学で「幸福」と言うと、まずアリストテレスの『二コマコス倫理学』が思い浮かびます(これはかろうじて読みました。ここに幸福の基本的問題はすべて出ているように思います。)『幸福論』と言いますと、あとはアラン、ヒルティ、ラッセルが思い浮かびます。
* 日本語の書籍で面白いのは森村進の『幸福とは何か』 (ちくまプリマー新書)です。プリマーでも全然簡単ではありません。私はこの本でデレク・パーフイットを知りました。
* ところでhappinessとは「一時的な心の幸福状態」を表すようで、哲学における幸福はwell-beingです。The Philosophy of Well-Being (Guy Fletcher)には目を付けているのですが。
幸福が哲学で取り上げられないことの一因は、「メタ倫理学」が流行したことであり(メタ倫理学は言語分析に重点があります)、さらに、ロールズ以降の自由主義が人生に関する不介入主義を取ったことも原因であるとされます。
* 「メタ倫理学」的なことは小さい頃から考えていますが、きちんと勉強したことはなく、R・M・ヘアとか読んでみたいです。ロールズの『正義論』もサンデルの参照図書にあり、買ったはいいものの本棚に眠ったままです。勉強せねば!)
そうは言っても、「幸福とは何か」という問いは、依然として重要です。しかし幸福を客観的に測定する方法はありません。
「幸福とは何か」という問いに答える時に、「それはお金だ」、「健康だ」、「他者とのコミュニーケーションだ」と答えても、それは幸福を構成する要素を挙げたにすぎません。著者が問うのは、「それらに共通する性質は何なのか」という問いです。
この問いに対し、ベンタムやミルならば、「快楽」と答えることでしょう。ただしミルはベンタムと異なり、快楽には質的差異があると主張しました。ただしミルは、それをリスト化し、人々に強制することには断固反対しています。児玉先生はさらに一歩突っ込んで、苦痛にも質的な差異があるのかと問います。大変面白い着眼点ではありますが、本題かは逸れるので、ここでは省略します。
* しかしミルのように、快楽に質的「上下」を決めてしまうと、「最大多数の最大幸福」を決めることが非常に難しくなってしまいます。そもそも快楽に質的差異を認めないベンタムにおいてさえ、ゲームをする快楽と、焼き肉を食べる快楽の「量」を計量することはできないでしょう。計量できないものを、どうして「最大幸福」などと言えるのでしょうか。
* 安保闘争の頃、東大の大河内一男総長が、卒業式でミルの言葉を引用(誤訳?)し、「太った豚になるよりは、痩せたソクラテスになれ」と言った話は有名ですね。
さきほど、「さまざまな幸福について、共通する性質は何か」と問われましたが、「快楽」についてもまた同じ問題が存在します。「さまざまな快楽について、共通する性質は何か」という問いが生じるのです。
さらに、ロバート・ノージックの「経験機械」(脳にプラグを挿して、バーチャルな世界で望む経験を体験できる機械)という思考実験の例を通じて、著者は「自分が望ましい状態にあると感じているだけでは、われわれは自分が幸福だとは思えない」と述べます。「なぜならわれわれは、主観的に満足しているだけでなく、客観的にも幸福でありたいからだ。」
* これと似た話はPhilosophy for Everyone (4-3)で、『水槽の中の脳( brain in a vat)』として取り上げました。ノージックの話はサンデルJusticeにも出てきます。
* 「経験機械」のラディカルさとは、被験者が一生(永遠に)客観的立場に立てないことです。そうであるとすると「客観的にも幸福でありたい」と思考することも不可能なのではないでしょうか??
以上、幸福とは快楽が多い状態であるとしても、「快楽をうまく定義できない」、「快楽を感じるというだけで幸福とはいえない」という2つの問題があることが指摘されました。
次に、「幸福とは欲求が充足されることだ」という考え方を検討します。この考え方では、「人々が欲し選択するという事実を幸福の規準にする」ことが提案されます。この方が快苦よりも客観的であるからです。
* 「選択(選好 preference)する項目」ではなくて「選択するという事実」ですか、うーむ、分かったような分からないような。。。
このように「人々の選好や欲求を最大限に充足させる行為」を正しいと考えるのは、「選好功利主義」と呼ばれます。ここで、アルツハイマーになった女性が選好を満たされた場合、それが彼女の幸福に結びつくのか、というような例が検討され、「われわれがもつすべての選好を充足させることが幸福につながるわけでは」ないと結論付けられます。
* さきほど言及したデレク・パーフィットは『理由と人格』で快楽説,欲求充足説,客観的リスト説という三分法を提出しています。本書では直接言及されていませんが、著者は当然この本を念頭に置いていると考えられます。
さらにアマルティア・センによる「適応的選好の形成」の問題が取り上げられます。
「非常に制限された環境や構造的な差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまい、幸福になるために通常は必要だと思われる選好を持たなくなる可能性がある。これを適応的選好の形成と言う。」
* アマルティア・センは、インドの経済学者、哲学者で、アジア初のノーベル経済学賞受賞者でもあります。
* センは適応的選好形成の特徴として、(1)悲しみや不満を言い続けない、(2)状況を変えようという動機を欠いている、(3)なくならない逆境とうまく付き合う、(4)小さなことでもありがたく思う、(5)不可能なことを望まないようにする、の5点をあげています(『不平等の再検討――潜在能力と自由 (岩波現代文庫)』)。
* アマルティア・センとマーサ・ヌスバウムは、ケイパビリティ(潜在能力)という考え方を導入した「人間厚生経済学」を提唱しています。この考え方は、貧困や開発の問題を捉えるために用いられています。
結局、選好が充足されたからと言って、幸福だとは言えないという結論が導かれます。
さらに「愚かな選好を充足すべきか」という問題が検討されます。愚かな選択の例として、「面倒なので後部座席でシートベルトを締めない例」が挙げられます。この選好を「愚かである」と否定し(充足させず)、より合理的な選択をするよう仕向けることは幸福につながるでしょうか。
ここで2つの問題が指摘されます。1つ目は、「合理的な選好」という概念は「パターナリスティックな理論になる危険がある」という問題です。本人がこうしたいと思っても、外部が「こっちの方が合理的だから」と押し付けるわけですからね。2つ目は、「個人が現に抱く選好のことは考慮」されないという点です。強制するかしないかはともかく、本人が「現に」持っている選好を無視して、客観的な合理的選好のリストを作ろうとしているわけですから、本人の選好は無視されています。
このように、「功利主義者がすべきことは、諸個人の快楽や選好を満たすことではなく、諸個人の利益を最大化すること」という考え方は「厚生功利主義」と呼ばれます。
選好や快苦には「効用の個人間比較の問題」が存在しますが、「利益やニーズは、快苦や選好よりも客観的」です。しかし「真に客観的なリストを作るのが難しい」という問題は依然残ります。
また、利益やニーズである程度、客観的なリストが作成できたとしても、最初の「それらに共通する性質は何なのか」という問いには、依然答えていません。
本章の議論を経て、児玉先生の暫定的な見解が述べられます。
まず、政治のレベルでは、人々に共通する利益・不利益のリストを作成し、人々が幸福になるための基盤を提供することが提案されます。
個人のレベルでは、「通常は自分が現に持っている欲求を満たすことが幸福につながる」ものの、適応的選好の形成の問題は残ります。
* 本書の刊行から13年が経過した現在、児玉先生の見解がどのように変化したのか是非とも知りたいところですが、何を読めばいいのでしょう?
本章の著者によるまとめを引用します。
「幸福とは何かという問いにきちんと答えることは難しい。幸福は単純に快楽とは言えないし、選好充足とも言えない。そして本人の利益を満たすという考えも、幸福とは何かという問いには答えられていないように見える。」
面白い考察ありがとうございます🙏
「幸福とは何かという問いには答えられていないように見える。」
細分化すると不足があり、総和的に考えるとぼやけてしまいますね。
個人的には時間軸を入れて、任務とそれを達成できた時の快楽を人間的幸福入れたいです。
コメントありがとうございます。ただの紹介にならないよう、自分の考えを入れていますが、まだまだ未熟であることは自覚しております。だんだんレベルアップできればと思います。