今回は、『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』(白井聡、講談社現代新書)の最終章【第3章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「包摂」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。
【第3章 「包摂」の概念、「包摂」の現在】
最終章では『資本論』で提示された「包摂」(subsumption)の概念が取り扱われます。
著者は、この用語に否定的なニュアンスを読み取ります。
「では、何が何を包み込むのか。端的に言って、資本主義のシステムがわれわれ人間の全存在を含むすべて、自然環境を含む全地球を包み込む、ということだ。」
* マルクスが言う「包摂」は、資本が労働を自らの運動の内部に取り込む仕方を指します。特に有名なのが以下の二種類です。
「形式的包摂」(formal subsumption):資本はすでに存在している労働形態を、そのまま賃労働として取り込みます。労働の技術ややり方はまだ変えません。
「実質的包摂」(real subsumption):資本が生産そのものを組織し直し、技術・分業・機械制を発展させ、労働のあり方を根本的に変えます。
* 実は『資本論』そのものの本文には 「形式的包摂」「実質的包摂」という用語は直接は出てきません。「資本による労働の包摂」(Subsumption of labour under capital)という表現は、マルクスが『資本論』の草稿(とくに『グルントリッセ』や『1861–63年草稿』)で明確に展開しています。そのなかで 形式的包摂 (formelle Subsumtion) と 実質的包摂 (reelle Subsumtion) という区別をしています。
本書では、「グローバリゼーション」も「物質代謝の過程の総体を資本が呑み込み、価値増殖の手段にしようとする傾向」(要するに「包摂」)と捉え直されます。
* 「グローバル化」にもそれぞれ「形式的包摂的なグローバル化」、「実質的包摂的なグローバル化」が存在します。
・形式的包摂的なグローバル化:
資本が農業や手工業など既存の生産様式をそのまま取り込み、低賃金労働として編入します(たとえば発展途上国の農民を輸出用モノカルチャー農業に従事させるなど)。
・実質的包摂的なグローバル化:
資本が新しい生産様式やサプライチェーンを創出し、世界規模で労働の仕方や生活様式を根本から変えます(たとえば多国籍企業によるグローバル生産ネットワーク、ITや金融による全地球的な統合など)。
* 現代マルクス主義やポストオペライズモ(例:ネグリとハート『帝国』)では、グローバリゼーションを「労働だけでなく社会全体・生活形式・文化までも資本が包摂する過程」として捉えます。
本書に戻ります。ここで著者は次のように問います。
「この全面的な包摂という事態がわれわれをどこに導いていくのか」と。
第2章で見たように、資本は「人間の都合に本質的な次元ではいっさい配慮しない独自のロジック(他者性)を持つ、価値増殖の無限運動」です。しかし著者が引用するマルクスの表現では、「その価値とは(略)「幻のような対象性」である」のです。この事態を著者は、「資本とは、何やらわけのわからない、摑みどころのない何かが、際限なく増え続ける運動であり、資本主義社会とはそのような不気味な何かによって覆われ、埋め尽くされてゆく社会にほかならない。」と述べます。
* 「包摂」と「幻のような対象性」について考察してみましょう。商品の価値が「幻のような対象性」として現れるのは、人間の社会的関係がモノに転移してしまうからです。この「転移」が生じる背景にあるのが、まさに「包摂」です。
・資本が労働を包摂すると、労働の成果(商品)はもはや労働者自身のものではなく、資本の自己増殖の運動の一部になります。
・その結果、人と人との関係(労働者と資本家、労働者同士の協働関係)は「商品と商品との関係」として表面化します。
・つまり、労働の包摂が進むほど、価値の「幻のような対象性」は社会全体を覆い、人々は「資本という物的力」に従属していくように見えるのです。
* 資本の運動としてのつながりをまとめると、「包摂」は「資本が労働をどう自分の運動に取り込むか」の理論であるのに対し、「幻のような対象性」は「その結果、人間関係が物の属性として現れる現象」を指します。両者は表裏の関係にあります。包摂が深まれば深まるほど、価値や資本の運動は人間にとってますます「自律した幻の力」として立ち現れるのです。
* マルクス後期の「包摂」概念では、実質的包摂が進んだ資本主義では、人間の生活全体・自然との関係までもが資本の運動に包摂される、と論じられます。このとき、価値や資本はまさに「社会を超越する幻想的な対象性」として現れるわけです。
本書から引用していきます。
「資本主義的生産様式において、まずは労働が資本のもとへと「形式的にに包摂」される。」
「相対的剰余価値の生産のためには、「包摂」が「実質的包摂」の段階に進まなければならない。」
* 資本主義的生産様式が単なる「形式的包摂」から「実質的包摂」に進むことで、相対的剰余価値の生産が可能になります。
さらに引用します。
「マルクスが目撃した実質的包摂の到達点は、資本主義生産様式におけるその時点での究極の包摂、すなわち、機械化された工場における機械と一体化させられた労働であった。」
* 「実質的包摂」とは、資本のために労働の内容・形式・技術的基盤そのものが改造されることを指します。
* マルクスが生きていた19世紀において、この「実質的包摂」が最も進んでいた形態が機械制大工業でした。ここで労働者は「道具を使う人」から、「機械システムの付属物」となっていきます。
* 「機械と一体化させられた労働」とは、労働者が「機械の付属物」と化し、労働は機械システムに組み込まれる一機能となることを指しています。
* この後、本書では「フォーディズム」が分析されます。フォーディズムは20世紀初頭にフォードが自動車生産で確立した方式で、大量生産・大量消費 を前提とした産業・社会の仕組みが特徴です。技術的には徹底した分業と標準化を行い、社会的には労働者に 比較的高い賃金を与えて、彼ら自身を大量消費市場の担い手にしました。
本書では「フォーディズム」と「包摂」について以下のように述べられます。
「フォーディズムにおける労働の資本のもとへの実質的包摂は二つの局面で進行する。一つには、生産過程において、労働者は相対的剰余価値の生産に抵抗しなくなり、さらにはそれに積極的に参加するようになる。」
「もう一つの局面は、包摂が工場からその外へと及んでくるという状況だ。」
「フォーディズムにおいて、労働者階級は物質的には豊かになった一方で、生産過程においても、再生産(消費)過程においても、資本の論理を内面化するようになってしまう。」
この後、本書では、フォーディズムの後に台頭してきた新自由主義の時代の包摂について検討されます。
* フォーディズムから新自由主義への転換についてまとめてみましょう。
- フォーディズムの段階(20世紀前半〜1970年代)
フォーディズムは、労働の実質的包摂が典型化した形態です。ケインズ主義的福祉国家と結びつき、大量生産=大量消費の安定的循環を形成しました。 - 危機と転換(1970年代)
需要の飽和・オイルショック・利潤率低下などにより、フォーディズム的再生産システムが行き詰まってきます。
これに対応するため資本は、柔軟化・金融化・グローバル化の方向へ転換していきます。 - 新自由主義の段階(1980年代〜)
包摂の形が変質していきます。新自由主義では、労働だけでなく生活全般・社会関係・主体そのものが資本の回路に組み込まれていきます。生計全体が市場原理にさらされるのです。クレジットカードや住宅ローンなど、金融システムを通じて未来の労働や消費まで資本に包摂されるようになります。
本書から引用します。
「実際は資本に奉仕しているにすぎないのに、自分は自由で進歩的であるかのように思い込む心性が蔓延する。そのとき包摂されているのは、人間の精神である。」
* これはどういうことを言っているのでしょうか。新自由主義は「自己責任・自己実現・自由競争」といった言葉を通じて、資本の論理を「個人の自由」として内面化させます。たとえば、長時間労働や過剰な自己研鑽も労働者は「自分のため」「キャリアアップ」と思い込みます。しかし実際には資本にとって有利な働き方をしているにすぎません。ここで言われているのは、資本がもはや身体的労働だけでなく、精神・価値観そのものを包摂しているということです。
「かくして、資本への積極的隷従が自己利益として認識されるとき、資本にとっての「最良の労働者」が生まれる。資本のロジックが存在する限り、労働者の団結はある意味で不可能なのだ。」
* この一文ももう少し掘り下げてみたいと思います。労働者の積極的な従属(voluntary servitude)とは、資本の側から見れば、強制するよりも「自由を装った従属」を広めるということです。次に「最良の労働者」という表現ですが、これは当然資本の側から見て「最良」なのです。その理由を列挙します。
・労働者が従属を自覚せず、自分は「自由に働いている」「自己実現している」と思い込みながら、実際には資本に奉仕している。
・労働者は自発的に資本の論理に適応し、強制されなくても長時間労働やスキルアップを進んで行います。資本から見れば「管理コスト」が少なくて済むのです。
・労働者の抵抗の意志が弱い/無いため、賃金や労働条件が悪化しても「仕方ない」「自分が努力すればいい」と受け入れてしまいます。
このような状況を著者は、「資本の他者性」が猛烈に回帰してきた、と述べます。
では私たちはどう生きていけば良いか。これは、この本を読んだ私たちに与えられた課題です。
[…] * マルクスについては別の記事で相当丁寧に紹介しましたので、ここでは簡単に千葉の記述を追ってみます。千葉は、マルクスにおける「力の存在」に着目します。本書から引用しま […]