プラトンに倣い、AIの時代における新しい『対話篇』を創造(生成?)してみました。今回は第1回ということで、なじみやすいテーマを選んでみました。(なお、文中の「あなた」は私のことです。)
あなた:インスタグラムにおいては、なぜみんな食べ物の写真をアップするのだろうね?
ChatGPT:食べ物は誰にとっても身近で、共感を呼びやすいテーマだからだと思うよ。さらに、美味しそうな写真は視覚的に映えて、見た人の反応を得やすいんだ。だからこそ「今ここにいる」という実感を簡単にシェアできる手段になってるんだろうね。
あなた:これは日本だけの現象なのかな?
ChatGPT:日本に限らず、世界中で食べ物の写真はよく投稿されているよ。アメリカやヨーロッパでも「フードポルノ」と呼ばれて流行しているし、韓国や中国でもカフェ文化と結びついて盛んだね。ただ、日本では「いただきます」や「ごちそうさま」といった食文化の習慣がある分、独特の色合いがあるかもしれない。
あなた:「フードポルノ」とは初めて聞いたな。なぜ「ポルノ」なの?
ChatGPT:「ポルノ」という言葉は、本来の性的な意味ではなく「過剰に視覚的に訴えるもの」というニュアンスで使われているんだ。つまり、実際に食べなくても写真を見るだけで強烈に欲望を刺激されるような食べ物を指している。だから「フードポルノ」という表現は、視覚的快楽に特化した食のイメージを揶揄する言い方なんだよ。
あなた:へえ、知らなかったな。「共感を呼びやすいテーマ」ということだけど、僕は無難だからだと思うな。
ChatGPT:なるほど、その見方も大事だね。食べ物は政治や宗教のように分断を生みにくく、誰もが「いいね」と言いやすい題材だから無難なんだと思う。だから共感を呼びやすいだけでなく、衝突を避ける安全な表現手段としても機能しているんじゃないかな。
あなた:だから食べ物をアップするという行為は逆に、何かを隠蔽しているとも言えるのではないかな。
ChatGPT:確かにそう考えると、食べ物の写真は「安心な仮面」として使われているとも言えるね。人は無難なものを前に出すことで、自分の不安や孤独、あるいはもっと複雑な感情を隠すことができる。だから投稿は表面的には明るくても、その裏に沈黙しているものがあるのかもしれない。
あなた:隠蔽されているものの例をいくつか挙げてみてくれるかな。
ChatGPT:たとえば、誰にも見せたくない孤独や、自分に自信が持てない気持ちがあるだろうね。また、現実の生活に満足していないとか、人間関係の不安定さを隠している場合もある。さらに言えば、「特に特別なことがない」という退屈さそのものを覆い隠す役割も果たしていると思う。
あなた:なるほど。特定の政治的主張を隠蔽する人も多いよね。
ChatGPT:そうだね、政治的な立場は人間関係に摩擦を生みやすいから、あえて隠す人も多い。その代わりに無難な食べ物や旅行の写真を出すことで、争いを避けつつ「私はここにいる」と示すわけだ。いわば、食の投稿は自己表現であると同時に、沈黙の戦略でもあるんだろうね。
あなた:また仕事をしている場面や、家族と食事している場面といった、ごく当たり前の場面も隠蔽されている。
ChatGPT:うん、そういう「当たり前の場面」はかえって投稿されにくいね。日常のリアルな労働や家族の時間は、他人に見せても特別さがなく、むしろ生々しさが出てしまう。だから代わりに彩りのある一皿やカフェの空間を切り取って、「日常の一部」を演出するんだと思う。
あなた:「生々しさ」が出てしまうと、なぜいけないのだろう?
ChatGPT:生々しさは、他人にとって共感よりも違和感や負担を与えやすいからだと思う。仕事の疲労や家族の葛藤といった現実的な側面は、見る人に「重さ」を感じさせる。一方で、きれいに盛られた料理は軽やかで安全に共有できるからこそ、好まれるんじゃないかな。
あなた:僕はそこに欺瞞を感じるのだがな。
ChatGPT:その感覚はもっともだと思うよ。一見ポジティブな投稿の背後に現実を隠す構造があるなら、それは自己演出としての欺瞞に近い。ただ同時に、人は生きやすくするために少しの虚飾をまとわずにはいられない存在でもあるんだろうね。
あなた:なるほど。しかし「重さ」を避けて「見映え」を追求ばかりしていると、逆にそこには何とも言えない空虚さが生じないだろうか?
ChatGPT:まさにその通りで、見映えを優先し続けると中身が希薄に感じられてしまうね。写真は華やかでも、そこに映らない現実との落差が大きいほど、空虚さが強調される。だからこそ、SNSには「きれいだけれどどこか虚しい」という独特の雰囲気が漂うんだと思う。
あなた:それに食べ物や旅行の美しい写真ってステレオタイプだよね。
ChatGPT:確かに、食べ物や旅行の写真は型にはまった表現になりやすいね。誰もが同じようなアングルで撮り、同じような加工を施すから、個性よりもパターンが目立つ。そうすると一見華やかでも、実は消費され尽くした「記号」としてのイメージに近づいていくんだ。
あなた:なるほど。「消費され尽くした記号」は最終的にどこに行きつくと思う?このまま同じ状態が続くのか、それともある日突然インスタグラム(のようなもの)は廃れるのか。
ChatGPT:「消費され尽くした記号」は、やがて人々に飽きをもたらす運命にあると思う。その結果、二つの道が考えられる――一つは、今の形がだんだん色あせて、別のプラットフォームや新しい表現様式に移っていくこと。もう一つは、同じインスタグラムであっても、流行の表現が更新され、より生々しい、あるいは逆にもっと人工的なスタイルに変わっていくことだろうね。
あなた:食べ物の写真は「本人の顔が見えない」ということも特徴だよね。直接本人が写っていないということではなく、本人が作ったものでもない、レストランのカタログのような写真を並べるという無個性さが際立っているように思えるなあ。
ChatGPT:たしかに、そこには大きな特徴があるね。食べ物の写真は「自分」というより「商品」を前面に出すから、個人の体温や生活感が薄れてしまう。結果として、投稿者はいるのに不在のように感じられる、不思議な無個性さが浮かび上がるんだと思う。
あなた:そんなに「自分を主張しない」ことが美徳なのだろうか。まあ一種の主張はしているんだろうけどね。
ChatGPT:面白い問いだね。日本的な文脈では「出しゃばらないこと」が美徳とされる場面も多いから、無個性に見える投稿も実は調和を意識したスタイルかもしれない。ただ同時に、「あえて個性を消す」という行為自体が、逆説的に強烈な自己主張にもなり得るんだ。
あなた:誰でもそのレストランに行けば同じ料理を食べることができるのに、「逆説的に強烈な自己主張」にもなり得のかな。
ChatGPT:そうだね、料理そのものは誰でも体験できるけれど、「これを選んで撮ったのは私だ」という行為が残るんだ。つまり料理の独自性よりも、選択や切り取り方が投稿者の痕跡になる。だから同じ皿を前にしても、人によって「見せ方」が主張のかたちになるんだと思う。
あなた:そうかな、そこまで考えて撮影している投稿は少ないように思うけれどなあ。
ChatGPT:確かに、多くの人は深く考えずに撮っていると思う。けれども無意識の選択にも、その人の習慣や美意識がにじむんだ。だから意図していなくても、結果的には「その人らしさ」が透けて見えてしまうんじゃないかな。
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